仏法者にとって最も深い仏縁となる御縁は熱烈な聞法である。しかしそれは聞法の機縁のある時のことである。
もし聴聞しようにも法筵がない時、或いは法筵があっても聞法できない時、
我々はどのようにして仏縁を求めればよいのであろうか。
なまけ心を悪人正機にすりかえて、そのうち何とかなるだろうと、
何にもしないで“タナボタ”式の信心を夢みているようでは
後生の一大事の解決などできるはずがない。
されば生活即信仰といわれるように、
日々の生活の中に仏縁を深める努力をしなければならない。
罪悪は深重、しかも迅速な無常を背負っている我々は
一日も片時も信心決定を急がなければならない。
次のことは仏法者として日常行なわなければならない重大な案件である。
聞法に縁のない時は、できるだけ仏に親近するように努めなければならない。
その為にはどんなに忙しくても朝夕の勤行だけは欠かしてはならない。
仏縁は宿善といっても同じである。
宿善は又善が宿るともよめるのだから少しでも善根功徳を積むように心がけることが大切である。
我々に善根功徳が積めるのか、
凡夫の積める善は凡て雑毒、
虚仮ではないかと非難する人があるかも知れないが、
仏眼からみれば確かにその通りであり、
それらの善や行いは往生浄土の資助とはならない。
しかしだからといって善を積む必要がない、
悪にほこっていてもよいということでは断じてない。
浄土真宗の道俗は悪人正機を誤解して我々のやることはすべて雑毒の善でしかあり得ないのだからと早合点して一向に修善に向おうとしないけれども、とんでもない聞き誤りである。
その上阿弥陀仏は悪人を好きなんだからと放逸無慚な生活をしている者が多いが、
仏教の根本道理さえ判っていないのだ。
善因には善果あり、悪因には悪果あり、自因には自果を生み出すということは、
三世十方を貫く真理であると教えているのが仏教である。
やってもみないでどうにもならないのだと合点だけして因をまかねば結果はこないだけである。
だから真宗の信者は無気力で消極的になり、退嬰的になるのだ。
勿論善根を積もうにも我々にはできることと、できないことがある。
しかし真剣にやろうとしない人にはそのどちらも判らない是非やらねばならぬと真面目に真剣にとりかかってこそ、初めてできることも判るし、できないということもハツキリ判るのだ。
なんにもしないで初めからできないものと決めこんで怠惰になっていては永久にできるためしがない。
体験の世界を合点や知識で通ろうとするから空中分解したり、
空転りするばかりで一向に前進しないのだ。
最後にそれがどうして宿善となるかといえば、我々につめる善根は
私が……誰々に……何々を……してやったという
執着いっぱいの雑毒の善でしかないが
「当相自力・体他力」といって、
それをそのまま阿弥陀仏が宿善とかえて下されることを附記しておこう。
朝夕の
勤行に頂く『
正信偈』は一字一涙の思いで書かれた親鸞聖人の説法であり
『御文章』は蓮如上人の生きた声である。
五欲に追い廻されている一時、心静めて拝読させて頂くことは得難い仏縁となるから
決しておろそかにしてはならない。
どこの家庭でも朝夕は戦場のように忙しい。
勤行する余裕などなく、御仏飯も捧げないで家族だけが
そそくさと朝御飯を頂く。
つい仏様はあとまわしになる。
とりわけ冬ともなれば仲々おきられない。
御仏飯を幾日も捧げないで仏を餓死させては勿体ない。
仏花は枯れて材木となり、ほこりはうず高く真白になっている。
仏花が枯れているのは聞法心が枯れている証拠である。
ほこりにおおわれているのは三毒の煩悩におおわれている実証だ。
どんなに忙しくとも朝晩の勤行は必ず実践しよう。