昨年の夏義理の兄がガンで臨終真近い時でした。
「腹がはっているのは肝臓が悪いのだから手術すれば又元気になるよ」
と目はサバの死んだ白目のまなざしで私に言ったことを覚えております。
それも二十日程前に一緒に墓参りをしたのです。
それ故に入院して日数が経過していないので力も強くベッドの上で苦しげに転げ廻っているのです。
まったく「死ぬ」等とは露とも知らず、治るのだ、治るのだと信じているのです。
ところが段々病状が悪化して苦しくなると全身で
「つらい、つらい、水をくれ、水をくれ」
の叫び続けで、もだえ苦しんでおり、その切羽詰った体中からほとばしる最期の苦痛熱気は最期まで「生きよう、生きよう」がいっぱいでうなされ続けが臨終でありました。
あまりにも激烈であり、あっけない程でした。
そのことが心の片すみにまだ残っている時でした。
私が仏法を聞いたのはほんのちょっとしたキッカケが始まりでした。
妻の友人が家に二・三回遊びに来られた時でした。
私が話の途中に
「どこへ勤めていらっしやるのですか」
と尋ねた時、
「浄土真宗親鸞会です」
との返事でしたので
「若い身空でそんなものに凝って気の毒だなあ」
と浅はかに考えたものでした。
ところが話をしてゆくうちになかなか私の意見と合わず夜中の二時三時と熱が入って討論したことが再々ありました。
即ち私の生活の信念として形成されていた考えはきっちりとした目標をもって毎日を真面目に正しく過して行きそれにともなう苦悩や楽しみ、それ自体が人生であり、又人間として力一杯自分の能力のある限りを出し切り、やり抜いて幅の広いどんな困難にでも立ち向かって行ける根性を作り出すことこそが、最善の生涯に於ける方法だと信じており、その結果が良かろうが悪かろうが別に悔いは残らないと思っておりました。
また当時考えていたことですが、現在は第三次元の世界ゆえ四次元も存在する。
それが絶対の世界「浄土」なのかという疑問もあり、確か今年の一月十六日に出かけたのが初めでありました。
ところが最初の内は何が何だか解らなく聴聞を重ねたり
「こんなことが知りたい」
を読んで行く内に、次から次へと仏法への疑問が起り、早く納得のゆくまでしっかりと解りたい、そして聞きたい聞きたいで何か解らない力で引っぱられて行くように、
親鸞聖人の教えに引き込まれていたのです。
ところが、真実の教えの深さは知れば知る程、奥が底のない海のように深く、話の内容は聞いている時はその通りその通りだと思い、また口では簡単に言えるのです。
ところがいざ実際に行動に移すとなるとなかなか難しく、ちょっとやそっとではらちがいきません。
ちょうど紙に書いた饅頭の味が解るかというきわめて不可能なものだということが解ったのです。
即ち私達の思考、意志に関係なく腹の中のきたない根性は五欲煩悩のままの動きづめで真実は一つもなく、一生涯悪の造り続けなのです。
そうだ、こいつが自分を無始よりさ迷いさせ続けている悪の根源なのだ。
こいつを成敗するには、真実列車に乗らなければ絶対に解決の方法はない。
すなわち親鸞聖人の教えに自分の生命を一生をささげることなのです。
人間に生まれてこの真実列車に乗らなければ真の幸福はなく、絶対に苦しみ悩みからのがれることはできません。
あるのはただ奈落の底へと落ち続け、決して出離することなく、想像を絶する苦悩の世界へ逆もどりの連続だけなのだ。
さあ大変だ、火の車が後まで来ているのが解らないのか、ぐずぐずしていると命がないぞ。
さあ命をかけた一回勝負、根性すえて善知識のいかなる水爆や兵器に比べることが出来ない全身ふりしぼっての腹わたに響き渡るような血のお叫びの剣の真下に身も心もなげうってすっぱりと両断していただくまでは決して動かず、ひたすら真実列車に乗り込み、全世界の人々を一人でも多く乗せ続け、最後には満員真実列車とし、地球上の一人の人間の積み残しのないように共に終点駅の阿弥陀仏の浄土に到着するまで決して決して途中下車することなく何が何でも必死に、無我夢中に乗り続けようではありませんか!
皆さんどうぞよろしく御願い致します。