己を知る者は人生の勝利者
自分で自分が判らないとはよく聞く言葉である。
一見矛盾しているようであるが、真実の鏡、法鏡に照し出されなければ
何人といえども己を知る事は出来ない。
己を知る事こそ人と生まれた本を取ることになるのである。
真の人生の勝利者といえる。
よもすがら仏の道に入りぬれば我が心にぞたずね入りぬる
万物の霊長?
人間が万物の霊長であることはどんな馬鹿でも自認して疑わないところである。
何が万物の霊長なのであろうか。
体の大きさでは馬にも劣り、力の強さでは牛にはかなわない。
美しさでは孔雀の足下にもよれず、長命なことでは象にも劣る。
そこで人間その
智慧と徳を誇るわけだが、
馬鹿といいくるめる悪智恵はあっても方角を見る事では犬や鳥の足下にもよれず、
地震を予知することナマズにも劣る。
徳行に至っては人面獣心、外面
菩薩内夜叉とかいって
社会の規律を守らないことではアリやハチに合わす顔がない。
そこでライオンにいわせれば百獣の王だろうし、
カエルにしてからが井の中に君臨して酒々然としているところをみれば、
人間が万物の霊長だというのも畢竟は自画自讃、
ナポレオンが自ら王冠を取って自分の頭に載せた類でしかないのだ。
万物の霊長を以って認じながら、狐狸にばかされたり、犬神にとりつかれたり、
新興の宗教、
神様に惑わされて、身も心も財産も亡ぼしてしまうなどなさけない限りである。
だが人間、自惚れと色気、
欲望のないものはいない
汝自を知れ!
一体これで万物の霊長と認ぜられてよいものであろうか。
恥知らずの恥かかず身の程知らずではないか。
虚栄心の塊りでほめて貰いたい一ぱいではないか。
歯の浮くような御世辞にも喜び、事の真相を突かれては腹がたつ、
また他人の不幸を喜び、他人を陥れることを「ヘー」とも思わない奴ではないか。
しかしよくしたもので、賢い人間は反省と懺悔を知っている。
自分の無力さ、醜さに気ずき内省を求める。
自惚れ強く虚仮不実、我利々々亡者が全てだと思う……
だがすぐ後から蓋をかむせ、打消そうとする心がムクムクのしてくる。
逆読の屍
智慧第一と謳われた
法然上人は十悪の
法然房、愚痴の法然房と悲泣され
親鸞聖人また、罪悪深重無慚無愧、
「とても
地獄は一定すみかぞかし」と自性を見抜いていられる。
然るに恥を恥とも知らず罪を罪とも感じない霊長類の魂は口では御都合主義、
悪見邪見の輩といいつつもビクともしていない。
フトンをかむって、いねむりしているではないか。
そんな人間であるが故に起す行動の総てを聖人は
「
三業を起すといえども、名けて雑毒の善と為す、亦虚仮の行と名く、真実の業と名けざる也」
と教えていられる。よくよく反省これあって、真実にめざめなければならない。
生死の苦海にありながら昨日も今日も我慢放逸、愛欲貪欲の波にただよわされ、
千波万波の、中を結構なよき処と思い、
執着して苦しんでいる私達ではないか。
噫、この三世の諸仏にも見捨てられた逆謗の屍を、憐れみ、慈しみ
聞く一つで助けると誓われた本仏
阿弥陀如来。
すべて見聞知の阿弥陀仏は我々を極悪人と承知の上
『
唯除五逆、誹謗正法』
と本願に説かれ
『
若不生者、不取正覚』と誓われたのだ。
まことにこの広大無辺な
阿弥陀如来の御
慈悲を得ずしては
何をもってか人間と生まれた本が取れようか。
己を知る者から救われるのだ。
大満足の世界に出でられるのだ。
己を知らずして霊長類面が出来ようか。