親鸞会では親鸞学徒の育成講義と共に教学の徹底化がおし進められている。
青年部が三ケタの大台に達し、教学制度も発足して久しい今、親鸞会に課せられた正法宣布、破邪顕正の聖使命はますますその重みを加えて来た。
これを受けて立ち、真実に生きんとする我々にとって、
聴聞は勿論のこと、仏法の基礎学問が当然必要となってくる。
これができていなければ、何を話しても末が通らず、人を正しく導くことは甚だ困難である。
この教学問題は善知識が絶対の体験と深い学問から、また長い布教体験から私達にとって必要欠くべからざる350題を選び教学問題解答集として作成して下されたものである。
この教学とその実践、いわゆる行学こそが真の仏法者の姿である。
その意のあるところはどんな所だろうか。
今、世間の人が思っている仏法の誤解を明らかに解くならば尚一層の光輝を放つであろうことは疑う余地がない。
では世間の人々は
浄土真宗の御教えを一体どのように誤解、曲解しているのか一、二の例をあげ、親鸞会の教学によって見事に顕正してみたいと思います。
浄土真宗の人の中には
阿弥陀如来を信ずると苦しみ悩みの人生が光明の広海となり、人生においてどんな逆境に遭おうとも、強く明るく逞しく生き抜かせて頂ける身に成れるのだと話すと、馬鹿な、我々人間がそんな幸福な身に成れるか、此の世に絶対の幸福なんかあるものかとうそぶく者がいるが、我々は此の人生を光明輝く人生に転ずる事ができるのであろうか、又、不可能なことなのか、
親鸞、
蓮如両聖人に尋ねてみましょう。
親鸞聖人のお書きになった世界の二大名著といわれる『
教行信証』をひもとくと聖人自ら絶対の幸福に成った体験を
「建仁辛酉の歴、雑行をすてて本願に帰す」
と述べられ、蓮如上人は『
御文章』二帖十三通には
「
他力の信心ということをば今すでに獲たり—乃至—今こそ明らかに知られたり」
と今こそ阿弥陀仏の本願によって苦悩渦巻く人生が今宵は身にも余る幸福者にさせて頂いたぞと絶叫なさっておられます。
故に我々は
阿弥陀如来の本願を信ずる一つで絶対の幸福者になれる事は、もはや疑う余地がないのです。
次に世間一般に使われている日常茶話になっている「
往生」については、どのように誤って使われているのか、マイクを世間の人に向けてみましょう。
Aさん「隣の婆さんは、えらく往生しとるそうな」
Bさん「なに!そんなに弱って死ぬ日が近づいたのか?」
Aさん「イヤイヤ違うのや、隣の婆さん、嫁の根性のきついのに往生しとるんじゃそうな…」
ではマイクを親鸞会教学部へまわして「
往生」の正しい意味と世間一般の間違いを正してみましょう。
今の会話を皆さんもお聞きになったように、「往生」とは死ぬ事困ること、又弱ることなどに使用されておりますが、これは大きな間違いです。
「往生」とは生かされて往くとか、往って生れると読み、我々が日頃
浄土真宗の法話を聴聞して阿弥陀仏の本願に救われて、晴れて大満足、大安心、生きてよし、死んでよしの日本晴の心になったことを「往生」したというのです。
ではなぜ
仏教がかくも誤解されているのか、2600年の古に引き返しますと、仏教の
お経は80才の天寿を全うされた釈迦牟尼仏という世界最高の覚者が当時印度の知識階級の人達を相手にして説法なされたものを結集されたものですから、ある意味では難しく、又2600年の歴史が影響しているものと考えられます。
またお聖教についても、絶対の体験の世界を述べられたものだけに、相対の頭、学問の為の学問だけでは理解することができなかったが故に誤解が曲解を招き、あらぬ方向づけがなされたものと思います。
故に親鸞会では、善知識のご教導の指示を仰ぎ、いまここに老いはそろそろ頭髪もまばらな明治生れ、若きはティーンエージャーの可憐な乙女も仏法、浄土真宗の御教えを正しく理解しようと、経典、親鸞、蓮如聖人の
浄土真宗のお聖教をおりまぜて一切経を勉強しているのです。
一切の人々の迷妄、誤解を正し親鸞会が破邪顕正、仏法宣布をする為に教学は必要欠くべからざるものとして制作されたものです。
知った者から、気の付いた人から教学の勉強を始めねばなりません。
親鸞会で勧める教学は、すればする程、増々真実が知らされ、
信心決定(絶対の幸福)に生命がかかってくるものです。
故に教学を学ぶ相のままが求道の勝縁となり、破邪顕正の宿善となり報謝の大行となるものばかりですから、親鸞学徒はこぞって、大いに正しい教学を深めてゆかなければならないのです。