「“行雲流水”というのは、雲が行くが如く水が流れるが如く淡々として執着を離れた心境だ。
世間の人達はこれが証の境地と思っているが、これは信後の境地とは格段の相違がある。
他力信心の境地は、動中静あり静中動ありの心境だ。
ちょうどコマのように動いているさまが静であり、静のままが動いている状態をいう」
ある人が、
「これは他力信心の智慧と慈悲の激しさ厳しさを表わしたものなのでしょうか」
とお尋ねすると、
「そうだ。
激しい言葉の中にも深い落ち着きがあり静かな中にも絶えずわき出るような歓喜とがある。
動だけだとおっちょこちょいで不安定だし、静だけだと消極的になってしまう。
動の中に静ありて静の中に動ありてこそ、本当の動があり静があるといえる」
また別の人が、
「これは絶対の境地であり、相対の世界ではありえないのでしょうか」
とお尋ねすると、
「相対の世界では努力すればあるだろうが、絶対の世界では努力しなくても、日常そのままがそのものになっているのだ」
とのことだった。