それまで
仏教といえば
七高僧のお名前すらあげられなかったり、月まいりにしても
正信偈を半分できり上げてしまう今の
本願寺を考えていた私にとって、親鸞会は、幼な心にも新しく力強い何か、魅力ある何かを感じさせてくれ、伏木、金沢と御法座を重ねました。
が兄や両親の強い反対と、それにもまして私の心に起きた強い名誉心にだまされて、一度も顔を出さないで過ごしてしまった年が丸四年もありました。
「親鸞会とはもうこれきりか」と思ったものです。
しかし貴き仏縁はそれ位の事では切れるどころか却って力強く生き続け、二度までも劇に出演させて頂いたのです。
また青年部の歌をも作らせて頂きました。
目には見えない大きな力が、人智では量り知れない偉大な
阿弥陀如来の念力が、この私をとらえて離さなかったのです。
よく、人は素晴らしきライバルを得た時、成功をおさめると言われます。
万葉歌人の山部赤人・柿本人麻呂しかり。
戦国の武将、上杉謙信・武田信玄またしかり。
近くは相撲の大鵬・柏戸これまたしかり。
ではライバルとは一体何か、「rival」好敵手として訳されていますが、単に暴力団の縄張り争いの様に敵対意識を持つ者同志を言うのでしょうか。
そうではありません。
ライバルとは相手を一人の人間として見つめ、尊重し、競争しつつもその長所を認めて、自分の精進の励みとする者同志を言うのです。
人間と人間の真底からのぶつかり合いが大きく成長させるのです。
二十才前後の若い男女の間でよくこういった会話がとり交わされます。
「私達って一体なーに?友情?それとも恋愛?」
私はそのカップルにこう答えてあげたい。
男と女、明らかに異なりはする。
が、二人は人間である。
そこに生身の人間同志としてのぶつかり合いが、良い意味でのライバル意識が、即ち友情が成り立って当然であると。
しかし見つめ合ううちに二人の間に友情を超えた言うに言われぬ感情が生じ、張り合う中にもすべてを許してしまい“あなたの私”“僕の君”といったかけがえの無い状態になったなら、二人は恋愛の極みに到達したと言うべきでしょう。
さて、私がこの親鸞会を知ってから既に六年半もの歳月が流れ去ってしまいましたが、その間の私の状態はどうだったでしょう。
いつでも心よく私を迎え入れてくれた素晴しき友に対する私の態度はどうだったでしょう。
それは頂度、ただ近くに居るから一緒に遊ぶといった幼な子の友達つき合いでした。
何ら自分から進んで交わろうとはしなかったのです。
親鸞聖人にできて、私に何故できぬ!
私はライバルを見つめます。
ライバルに近づきます。
自力、自力で見つめてゆきます。
そして恋愛の極みに達した男女が、
結婚を通じて夫婦と結ばれ一心同体となる様に、自力の極みに「ただじゃった。ただのただもいらぬただじゃった。私だけの阿弥陀仏であった」
と弥陀同体になるまでぶつかり続けます。
皆さん。親鸞会は待ってます。
あなたがぶつかりさえすれば、いつでも心を開いて受け入れてくれる素晴しき心の伴侶です。
そして阿弥陀仏は待っておいでます。
全人類、全宇宙の人々が、破闇満願
平生業成の大安心、大満足、弥陀同体となる日のくる事を。
頑張りましょう。