国木田独歩という文学者がいます。
キリスト教を信じていたのですが、いよいよ臨終なってキリスト教の牧師を呼びました。
これから死んで行くのですが
どうしたらいいのでしょうかと聞くと、
「
祈りなさい」といわれます。
何回聞いても「
祈りなさい」としか言われないので、
そんなことでは心から祈れません。
「祈らずとても助ける神なきや」
と言って
後悔の中、死んでいます。
私たちには、信じる心がないのです。
噂や
悪口なら信じる心はあります。
空事たわごとはすぐ信じますが、真実を信じる心はありません。
なぜなら真実は真実の心でないと信じられないからです。
昔、金比羅を信じている夫婦がありました。
貧しくて、産婦人科にもいけなければ産婆を呼ぶお金もなかったので、
自宅出産を試みました。
ところが、妻が陣痛が激しくなり、苦しみます。
夫が、お金がないので、庭の井戸で水をあび、
金比羅様、どうか無事子供を産ませてくださいと祈ります。
それでも妻の苦しみはひどくなる一方です。
そこで夫は、
金比羅さま、もし無事子供を産ませてくだされたら、
銅の鳥居を寄付します。
といいます。
それを聞いた妻がびっくりして、
「あんた、銅の鳥居は高いんだよ、どこにそんなお金あるんだい」
といいます。
それを聞いた夫は、
「うるさい、金比羅騙しているうちに、早く産んでしまえ」
と言ったという話があります。
このように、私たちは、心から信じているわけではないのですが、
神や仏を騙して幸せになりたいと思っています。
そんな心は、まことの心ではありません。
純粋な信じる心はないりです。
臨終が迫っている時に、必死に信じようとします。
すると、まことを信じる心がないことが知らされます。
それで国木田独歩は、
「祈らずとても助かる神なきや」
と言って死んでいったのです。
その信じる心、助ける力がおさまっているのが、
機法一体の
南無阿弥陀仏です。
だから絶対
他力です。
そこに
自力はまじりません。
まったく阿弥陀仏のお力で絶対の幸福になれるのです。
信じる心を頂いて信じます。
下宿生活をしている学生が、親から仕送りをもらってお土産を買うようなものです。
このように、
仏教は非常に深いのです。
だから
浄土真宗の法話を真剣に
聴聞しなければなりません。