岐阜での
浄土真宗の御法座に行く途中、親鸞会の先生のお車の中で。
いよいよ岐阜市内に入って来た時、
「岐阜までは遠いですけれど、もう来てしまいましたね」
「何回も来ていると本当に近くに感じられますね」
「
阿弥陀如来の
浄土も近いのだけれど、誰も行こうとしないのだよ。
その反対にみんな
地獄へばかり行き易いのだね」
そう仰言った善知識のお言葉に、行き易いところばかり求めている私達を待っているものは、
地獄の苦しみしかないのだと知らされました。
そして何回も
聴聞すると必ず浄土が、近くにあることが判ると確信しました。
この上は、本当に
阿弥陀如来の浄土の近いことが、はっきりする日まで聴聞に身を沈めて、求めさせて頂かなければならないと、日頃のぼんやりしている情ない心に、鞭をあてられた様に、感じられた。
至りてかたきは石なり。至りてやわらかなるは水なり、水よく石を穿つ。
心源もし徹しなば菩提の覚道、何事か成ぜざらんと云える古き詞あり。
いかに不信なりとも聴聞を心にいれもうさば、御慈悲にて候間、信をうべきなり。
只、仏法は聴聞にきわまることなり。(
蓮如上人)