私の小さい頃から、
浄土真宗の御法座を開いていた尊い仏縁ある家に生れながら、
それどころか仏教といえばただ
念仏を称えて、
現実の苦しみや悩みにはすべて、
目をつむって
諦めの生活をしなさいと教えている阿片業者の仲間に過ぎないではないか。
何事にも無気力で、消極的で、年寄り臭い人間だけに必要なもので、
若い私には全く関係のない教えだと思っていました。
だから仏法を聞いている私の母や姉を見ると無性に腹がたち、
仏にすがらずにおれない弱い、哀れな人間だと見下していたのです。
そんな母や姉が私に仏法を勧めるのですから素直になれる筈がありません。
毎日のように私の顔さえ見れば、仏法の話をしてくれるのですが、馬の耳に
念仏で、
一つも聞いてはいませんでした。
ところが「お前は
生きる意味を知っているのか」
「現在、満足しない心をもっていながら、どこで満足するつもりだ」
「浮わついた生活をしている間に、死に近よっているのだ」
と、気になる事ばかりいうので、それなら一度
浄土真宗の法話を聞いてみようと思い、
足を運んだのですが、
「二十分程聞いているともういやになり、すぐ家に帰ってしまったのです。
しかし姉は、聞く気のない私を何とかして聞かせてやりたいと一年半位、
無理矢理浄土真宗の御法座へ連れてゆくのでした。
それでも私には仏法がたいして価値ある教えとも思えず、
なぜ聞かなければならないのか判りませんでした。
こんなに仏法嫌いだった私にもある日、金沢で
浄土真宗の御法話を聞かせて頂く機会を得たのです。
その時の説法は旅人が危ない所におりながら一本の藤蔓にぶらさがって、
五滴の蜂蜜に心を奪われて、足下にある
地獄に堕ちるという後生の一大事を忘れている、
あの人間の実相のお話でした。
私はまるで自分の相を言われているようでびっくり致しました。
私はこの時、はじめて仏教を聞かなければならない理由が判ったのです。
そしてこの
後生の一大事を解決する為に全力を傾けようと固く心に決めたのです。
私達の人生は細い藤蔓のようなもので朝には紅顔あって、夕には白骨となる身です。
それだけにこの露の命を徒らに
無常の風に任せてはならないと考え、
仏法を聞くようになったのです。