我等の使命
「
光陰矢の如し。一寸の光陰軽んずべからず」
と故人は言った。
我々仏教を求めている者にとって、この言葉は深い実感として響いてくる。
実に誰人と難も時の流れに逆らう事はできない。
過去より現在まで、時はエスカレーターの如くスムーズに何億兆という人間を運び去り、そして今も我々を運び去ろうとしているのだ。
この大流の中にあってみれば、どれだけ生きたかは問題にならないであろう。
如何に生きたかが問題なのだ。
今日一日生きるという事は、今日一日死ぬ事だと善知識は仰言った。
されば
後悔なき一瞬、一日、一生涯を送るのには如何に生きたらいいのか。
浄土真宗の祖師、
親鸞聖人は破邪顕正を以ってその生涯とせられた。
聖人に続く我々も破邪顕正を以ってその使命とする時、真に生きたと言えるのだ。
末法の入口にある現在、
科学、物質文明は極度に発展しているのに、人心はますます
不安におののいている。
何かを信じないと生きて行けない人間は、邪教に走る者があとを絶たず、まさに現今の日本は
宗教のデパートと化している状態だ。
その中には特に最近、邪教創価学会の如き存在として注目を浴びてきた原理運動なるものもある。
彼らはキリストの使徒としての使命観を持ち、「オレがやらねば誰がやる!」と意気込んでいる。
このように誤れる使命観を持った彼等でさえ命がけでやっているのだ。
真実を知った親鸞学徒が、正しき使命観を持って立たなければどうするのだ。
邪教はますますのさばるばかりである。
善知識は、「私が一日安逸を貪れば、それだけ多くの人を三悪道に堕すのだと思えばジッとしておれない」と仰言る。
この御言葉は、そのまま真実を知った我々一人一人に通ずるのだ。
破邪の利剣をかざす時が来た。ある時は虎視眈眈として機をねらいある時は猛虎の如く襲いかかり、迷える彼等を正しき仏道へ導かねばならない。
マスコミで騒がれる邪教は万灯の明かるさがあるようにみえるが、底がないからすぐ消える。
しかし末法五濁の時機にともされた親鸞学徒の真実の一灯は消えることはない。
ガッチリと根をおろしているからだ。この真実の灯を明かるくするのも暗くするのも、我々一人々々の活躍如何にかかっている。
真実一つを以って突き進む時、何ものをも恐れる必要はない。
そしてその時必らずや正信があらわれるのである。
蒔かねばはえぬが、蒔けば必らずはえるのが種である。
因果応報。
因果を深く信じ、破邪顕正に邁進する時金剛の
他力信心を獲得できるのだ。
まさに金剛の信心と破邪顕正とは表裏一体だと言われる。
「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし」
と、心の底から
恩徳讃を歌える日が来るまで、善知識の教えに順い、真実一路突き進もうではないか。