必死に吸おうとする息は音をたて、正状な呼吸は乱れ次第に弱まり、
吐く息だけか回を重ねて多くなる。
生きる自由を束縛され一切のものは奪い去られ、
与えられるものは何一つ受け取る事が出来ず、
身は枯木の様に痩せ劣えて終日床の中で暮す。
心は目くらが杖を失った如く狼狽する。
時は四月、我か祖父はあたかも桜の花が散らんとするが如く、
いよいよ臨終が近づくにつれ、
崩れおちようとする人生をここで崩してなるものかと
必死に
努力して生と死の不断の戦いをつづけるが、
悪戦苦闘の人生も死の腕に抱かれては負けるに定まっている戦いであった。
あらゆる手段と尽力で死という最大の危機から逃れ出ようとするけれども
取り返しのつかない破船に近づきつつあるのを知りながら
その方向に舵を取ってしまったおじいさん。
おじいさんは吸うた息が吐き出せなかったのであります。
何の飾り気もない六畳の部屋で、見守る妻子、兄弟親類の者に最期の言葉をかける事もなく
92才の生涯を閉じたのであります。
見るも無惨な「哀れというも愚かなり」
の
蓮如上人の
白骨の章の言葉を噛みしめずにはおれません。
私の祖父は一生に与えられた時間80万4千時間、
働く時間、食事、睡眠の時間を差し引いても42万時間の自由な時間があったにもかかわらず、
果しなき
欲望を求めて最期には空手形を貰ってこの世を去った。
「前者の覆るをみて後者の戒とせよ」
の教訓をかみしめ、再び我が祖父の二の舞を踏みはしないぞと堅く決心するものであります。
我々に自由に与えられた時間は42万時間、一体何に使うかが問題であります。
老いも若きも智者も愚者も
親鸞聖人と同じく一味平等の世界、
開ける真実の
仏教に命をかけ六字の名号を体得して絶対の幸福を獲る事こそ
全人類の究極の目的であり
浄土真宗の教えこそ万国の極宗なのであります。
親鸞聖人の生れ出られた良き日を期して真実の御教に順い、
命をかけて若き血潮を散らそうではありませんか。