仏の目的、それは私達の苦悩を救うことです。
私達の苦悩とは一体どんな苦悩であろうか?
仏はこの苦を
四苦八苦という八つの苦をもって説明なされました。
四苦八苦の始めにブッダは『生きることは苦なり』と説かれました。
この世に生きる限り、食べ住み着ねばならない、
これ今現実として誰もが背負てゆかねばならない
苦しいつとめです。
いやなこと、辛いこともこのために耐えねばならないからです。
次に『老いることは苦なり』と説かれました。
人間誰れでも
『長生きしたい!!でも年寄にはなりたくない』
と願っています。
子供や孫にきがねしながら、半分こわれかかった身をもてあます老婆の姿は
ちょうど霙に羽音を破かれた蝶がただ死ぬ日を待っているように憐れです。
次に『病うことは苦なり』と説かれました。
人間生身の体つねに病気の
不安におびやかされます。
この病気のために私達の人生の期待や喜びがどんなにむごく裏切られることか、
ある人は
結婚を
諦め、あるひとは仕事を
諦め、
またある人は不治の患いにつかれ
自殺をしました。
また私の知人に子宮ガンのために五ヶ年もの長い年月
夜となく昼となく苦み続け泣きつづけて死んでゆかれた奥さんがありました。
次に『死のことは苦なり』と説かれました。
人間生れてから死ぬ時まで死をおそれ死をおびえて生きて来ました。
死にたくない!!と願っているのに死なねばならないのは苦しみであります。
生きたい!!死にたくない!!と言う私共の願いが、
死!!と言う恐怖に対し常にていこうしながら苦しみ続けます。
これは生命あるものの悲しい宿命です。
次に『愛するものと別離ることは苦なり』と説かれました。
親の死別、子の死別、妻、友、そして家、故郷とまさに世は愛別であります。
先頃高岡で中学生の女の子が自宅のすぐ前でトラックにはねられ即死しました。
悲しみのうちに
葬式も終り、今や遺体が火葬場に運ばれると言う時、
その母親がかえらぬ娘の遺体にすがりついていつまでも泣いて離さなかったと言うことを聞き、
まことに愛別の悲情を思いました。
しかしこれらの愛別苦もさることながら私達の苦に於て最も
苦しい愛別は
なんと言っても自分が死んで往く時の苦に勝るものはありません。
死は親子夫婦はもとより此の世の一切と別離するからです。
私達が死ぬ時、すなわち業魂が肉体と離れる時の苦は言語に絶すると言われます。
なおこのあと三つの苦がありますが次にゆずります。
で、仏はこれらの苦は上は大臣下は乞食に至るまで
誰も逃れることのできない苦みであると説かれました。
それでは、仏を信仰すればこれらの病気や災難や貧乏が無くなるのか?
と言う質問が起りますが、決してそうではありません。
ブッダでさえ病気や愛別や災難を受けられたのです。
しかればなにが救われるのか?
私は仏の救いを二つに味っています。
一つは、仏の生命を私が体験した時、このような病気や災難を縁として、
かえって信仰の味いが深まり、法の悦びが高まると言う仏力が体験されます。
すなわち苦しみや悲しみに会えば会う程、
仏の
慈悲が知らされ希望と感謝の心が起きて来てなりません。
親鸞聖人の『さわり多きに徳多し』と言う
不思議な体験が心一ぱいに戴かれます。
いま一つは、弥陀の生命を私が体験いたしますと、
このように苦しみの世に二度と生れて来ないと言う
とてつもない大希有の利益が成就されるのです。
即ち
信心決定すれば未来永劫弥陀の
浄土に決定するのであります。
まことに仏法はたんに、この世の苦悩が法悦に変ると言う利益だけではないのであります。
仏の大悲大眼目は二度と再度生死の苦海に還らぬと言う
驚くべき徹底せる本願にこそあったのです。
私はこの頃になってこの仏の大悲本願のあまりに広大無辺なるに
ひとり感無量となるのであります。
後生の一大事!!
聴聞の一念はまさにここにあります。
まことに私ごとき者、いかなる過去世の縁ありてか、
今日この深き御法にあいまつるものと、ただ伏て泣き入るばかりです。