キリスト教を基礎とする西洋文明のゆきずまりが叫ばれ、世界の学者が新しく東洋の
仏教に目を向けた。
昨今、誰も彼もが内外の情勢を憂い、新しく世界をリードする素晴しい教えを待ち望んでおります。
まさに物質文明は危機に瀕しており、その歪はいたるところにみうけられます。
世間には失望と溜息が満ち溢れてその
不安は極に達しようとしております。
1400年前、
善導大師が
「ただ巷には愁嘆の声のみを聞く」
と仰言った言葉は恐しい響をもって現代に残っているのです。
このような暗い世相を救う真実の光はないものだろうか。
人々の待ち望んでいる教えとは一体どのようなものなのか、それは世界の光と仰がれる唯一絶対の
親鸞聖人の教えなのです。
しかるに
浄土真宗の
本願寺の
僧侶が、どのように人々を導いているでしょうか。
たくさんのお年寄の中、五十はゆうに過ぎた背の低い、目が異様に輝いている布教使が話をしていました。
やがて聞くほどに
怒りがこみあげてくるものでした。
一つに「
阿弥陀如来は大
慈悲の親様だから、我々は十劫の昔に救いとられている。
だから感謝の
念仏となえて行け」と言います。
二つに「人生は苦なり」の
ブッダの金言を無視して、人生は楽である、何を苦しむことがあろうとも言う。
三つに、我々は救われてしまっているのだがら、それを気付かせて頂いたのが
信心決定じゃと憶面もなく言っている。
何も知らないおじいさん、お婆さんは涙まで流して布教使の言うことに一つ一つうなずきながら手を合わせるのです。
この人達はだまされている。
泥水を飲まされたうえ未来永劫迷わなければならないというのに感謝さえしているのだ。
それを見た私は思わず立ち上って坊主をひきずり倒し、皆の目の前で今の
浄土真宗の法話は間違いでしたとあやまらせたい衝動にかられたのです。
私はいきり立つ心をおさえ説法の終わるのを待ちました。
そして終わるや否や、さっそく噴き上げる怒りを胸に布教使の控室に行き法論をしかけたのです。
開口一番「先ほどあなたは
阿弥陀如来は十劫の昔に我々を助けて下さっているといいましたね。
しかもそれを気づかせて頂いたのが信心決定だと言いましたが、もし私が救われていることに気づかず死を迎えたとしたら私は
極楽へ行くのでしょうが、
地獄へ行くのでしょうが」
と尋ねたところ、彼は一瞬顔をくもらせ躊躇して答に窮しました。
更に私は一体どちらにゆくのかと何回もせまったところ、彼は苦しまぎれに
「そりゃ縁なき衆生は度しがたし、
地獄へ行きます」
とシッホを出したのです。
この場合、極楽へ行けるとは絶対に言えないのです。
なぜならば
御文章には
信心獲得しないものは必ず
無間地獄へ堕つるといたるところに書かれてあるからです。
私は追いうちをかけるように
「おや!それでは少しおかしなことになりますね。
十劫の昔にすでに助けて頂いているならは、このことに気づこうが気づかまいが我々はみな極楽
往生できるのではないですか。
あなたの言っていることにはなはだしい矛盾があります」
と強く迫ったところ、苦りきった顔で言葉をにごしておりましたがしはらくして何を思ったが、ふてくされたように私に合掌して、「この辺で勘弁してくれ」と謝るのです。
私はその態度を見て唖然としました。
これでも本願寺の布教使なのか。
全国でも有数の布教使といわれる坊主の態度なのか。
聞いていることには何一つ答えず、形だけ謝ることによって、その場を湖塗しようとする腐った根性は悪魔の坊主そのものです。
西洋文明のゆきずまりにより人々は救いを求めています。
これらの人々に本当の安らぎを与えるには真実の仏教という、おいしい清水を与えねはなりません。
しかしながらこの清水を与える尊い使命をもった東西本願寺が内部紛争を起し、連日新聞に書かれるような醜態をさらけだしていることは周知の事実です。
もはや本願寺は説法どころのさわぎでなく崩壊寸前なのです。
そこには
親鸞聖人の教えは微尽もなく坊主共は私利私欲の為には平気で御聖教をネジまげ、何も知らない人々を地獄へつき堕としているのです。
この法論で覚えた鮮烈な怒りを報告致します。
今こそ皆さんと共にこの怒りを憎むべき異安心の巨大集団たる東西本願寺にぶっつけ、そのでたらめな不浄説法に迷わされている人々を一人残らず破邪顕正しようではありませんか。
そして本当の
親鸞聖人の教を伝えることの誇りと使命感を新たに自覚しようではありませんか。