仏教の勉強すると
信心決定するのに邪魔になるから、
余り教学勉強はやらんようにしたらよいという人がありますが、
本当に教学をやることが求信の邪魔になるのでしょうか。
浄土真宗の人々の多くは学問と信心とは全く別で、
学問すると信心がおろそかになり求信の邪魔になるように思って
一文不知の尼入道にドン座っていますが、
とんでもない間違いです。
ですから
聴聞しても覚えるよりも忘れるのがよいように考えて
忘れるのを手柄のように吹聴する馬鹿者がいる現状です。
これは真実の教学を知らず一文不知の堕眠をむさぼって
「この身このままの、お助け」に座りこんで来たからです。
もちろん、導く人によって、つまらん求信の為にならないことに
無駄骨折らせる学問もありますから
教える人を選び内容を確めねばなりませんが
現在
親鸞会が勧めている教学(仏教の)は
信心決定している者は、その信味を深め
未決定の者には大変宿善となる大切なことばかりなのですから、
親鸞会に入って大いに真実の仏教を学び早く信心決定の身になって下さい。
それと大切なことは教学をやる人の心構えです。
学問の為の学問や他人にいばる為の名聞利養の為にするようなことでは絶対にいけません。
それこそ求信のさまたげになりますから厳につつしまねばなりませんが、
仏教の学問を排斥する理由はどこにもありません。
法然上人も
智慧第一を謳われた方であり、
親鸞聖人も八万四千の法門を読破せられた大学者でした。
我々の先達は一人として学問を無用排斥せられた方はありません。
真実の教学はすればする程増々真実が知らされ、
信心に生命がかかって来るものです。
また、そのような教学でなけば真の
仏教学とはいわれません。
また仏教の学問は単なる理クツではなく日常生活を通して仏教の真実性を確めてゆく
実践教学いわゆる行学でなければなりません。
いずれにしても
浄土真宗の法話を聴聞して
信心決定、後生の一大事の解決という大目的を忘れた学問こそ
排斥せねばなりませんが、真実の教学は
親鸞聖人や
蓮如上人の説法を親しく聴聞するのと同じですから
大いに学ばなければなりません。
親鸞会の勧める教学は、
そのまま求信の指針となり破邪顕正の宿善となり
報謝の大行となるものばかりです。
老若男女を問わず大いに真実の教学を深めてゆきましょう。