聖道仏教に対し『
教行信証信巻』には
「然るに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し」
と記し末法の現在、僧も在家の人も一宗の師とあがめられている人も
(
天台宗の伝教、
真言宗の
弘法、
禅宗の道元、
日蓮宗の日蓮、時宗の一遍)
自己の本性が
阿弥陀仏であり、
自分の心の中に浄土があるという
「己心の弥陀、唯心の浄土」
観に陥り正しい浄土
往生をけがしていると催破されている。
同じく『後序』には
「ひそかに以れば聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛なり、
然るに諸
寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林……」
と当時の聖道全仏教は全く廃れ、仏教にくらい。
何が真実か、何が仮なのかその入口さえ知らず、行に至っては邪正も判らない有様である。
ただ
浄土真宗の教えだけが盛んであると痛撃なされている。
それどころか同じ浄土門内(
法然上人門下)の
念仏の人達にも
「
定散の自信に迷うて金剛の真信に昏し」
と鉄鎚を下されている。
浄土の経釈を学び、浄土
往生を願うとも自力疑心に抱って
絶対
他力が獲られず迷っていると攻撃されたのだ。
◎偉大なるかな、金剛の信心
これ何というきびしさ、何という聖人の信仰の自信の深さか、
当時数知れない聖道仏教を徹底的に排斥され、
浄土門においても師、
法然上人を入れて四〜五人の他は全部ニセの信者と
徹底して攻撃され数の大小は問題外、四〜五人の信心決定した者を以って
浄土の真宗は今盛んと仰言った。
この勇気!大担さ!まさに痛快ではないか。
何が聖人をしてそうさせたのであろうか。
数の多少よりも、ー人いて一人が救われる教え、
本願間違いなかったという絶対他力の金剛の信心である。
たが為、世間中から仏教の怨敵じゃ、破戒坊主じゃ、悪魔じゃ、狂人だとののしられ、
法然門下の同僚からも背師自立の徒と罵声を受け遂には流刑にまで遇われた。
しかも尚
「仏恩の深き事を念じて人倫の弄言を恥ず」
と真実一路を進まれた聖人の偉大さ、
この聖人を支えたものは唯一つ金剛の信心であった。
聖人にとっては金剛の信心だけが命であり、仏教の総てであったのである。
◎金剛信と破邪顕正は表裏一体
金剛の信心と破邪顕正は表裏一体を成すものであり、
その金剛信を尺度として一切の邪悪を排撃されたのである。
親鸞会が邪教を破り、十劫安心の既成真宗教団を非難するのも聖人の金剛の信心に則り
六字の利剣のもと真実の仏教を顕わさんが為である。
「
涅槃の真因は唯信心を以ってす」(親鸞聖人)
明るい浄土を確約するものが金剛の信心であり、
聖人の御あとに順わんとするものは、
その全生命を
信心獲得に向け
浄土真宗の法話の
聴聞と破邪顕正に邁進すベきである。