なるほど法然の言うことも尊いところがあるが、
一切の聖道門(
阿弥陀如来以外の
仏教)では助からないからそれを捨てて、
阿弥陀如来の本願に帰せよ、とは何事か。
聖道門の教えだって
ブッダの説いた法ではないか、
それを聖道門の
仏教では千人のうち一人も助からないぞ、
阿弥陀如来の本願のみわれらの助かる道なのだとは
あまりにも偏執であり排他的ではないか、
仏教僧として宗教者としてけしからんことだ
と法然は排他的で喧嘩腰で頑固で量見のせまい坊主だと罵っていました。
ところが、その明遍がある晩、
天王寺の西大門に憐れな病人が沢山集っている夢をみました。
その中に実になつかしい面ざしをした墨染の衣と袈裟をつけた
一人の聖者が鉄鉢の中に重湯を入れて
小さな貝でそれをすくいながら病人の口に一人づつ入れてやっています。
親にも兄弟にも妻子にもみすてられた哀れな癩病患者を
たった一人の
僧侶が看護しながら静かに病人を拝んでいます。
そしてその看護のしぶりが実に親切で懇切です。
夢中で明遍は何という貴い人だろう。
末法にもこうした人があったのかと傍の人にあの方は誰人かと尋ねました。
すると「
あの方は吉水の法然上人である」という声を聞いて、
びっくりした時に夢がさめたといいます。
法然上人は高慢で余りにも排他的だと思っていたのは大間違いでした。
あんな病人に御飯を食べよといったって無理なのです。
あの病状ではどんな滋養になるものが、
どんなに沢山あっても何ともなりません。
食べられるものは一つもありません。
彼らの糧は重湯より外にないのです。
重湯こそあの病人が生命をつなぐ唯一の糧であることがわかりました。
一如法界を聞けば八万の法蔵はあれども
我ら凡夫にはなきに等しい高嶺の花でしかありません。
末法の我々の救われる道は弥陀の本願以外にはないことを知らされ
深く
懺悔して法然上人の弟子になっています。
親鸞会は排他的だと批難する声があります。
仏教以外の一切の
宗教は
外道邪教であり、
仏教でも弥陀の本願以外では絶対に助からないと
徹底的に破邪顕正するからでしょうが、
邪悪を破ることは、真実を知り真実を求め真実を獲得したものの
聖なる義務であり、真実の
慈悲なのです。
破邪することを排他的という者は顛倒の妄言です。
ブッダや親鸞、
蓮如上人方の破邪のきびしかったことを
よもやお忘れではないでしょう。
まさに破邪することをもって一生の任務とせられています。
生死は一大事です。戯事ではないのです。
他人の顔色を窺うて場面を糊塗すべきではありません。
親鸞学徒は破邪顕正の法戦に、
浄土真宗の法話にその骨を埋めるべきなのです。