浄土真宗は、
親鸞聖人が開顕なされ、その御教は七百数十年の歴史の中において幾多の法難をくぐり、現代に至っては
科学文明の発展や、その他色々な影響を受けて変貌を来してまいりました。
しかしその変貌も内外部を問わず、如来の教法を正しく伝えるものはなく親鸞聖人の真実の絶叫も我等凡夫には高嶺の花と雲の上に祭り上げ、今や日本仏教界は塔堂伽藍の乱立で、
仏教の真意を失い実はなく、まったく
浄土真宗二万の
僧侶に至っては如来聖人の遺産を食い漬し、自らが生死の大海に沈淪する群萌と化してしまったのであります。
私がかって京都の地を踏んだ時、
西本願寺の休憩室に三基の納骨箱が並んでいて、中年の奥さんがこれは一基百万円、これは一基五十万円、これは一基三十万円と納骨箱を売り込み中の坊主の話をきゝながら、死んだ人も今迄の様な暗い石の下よりはこんな明るい納骨箱に入ったらどんなに良いでしょうねといっていたのを耳にした。
皆さん「俺が死んだらこんな石の下になんかおらんぞ!!死んでそんな納骨箱の中におれると思っているのか」と臨終説法していった
妙好人の庄松同行や、
親鸞聖人が
「私が死んだら
葬儀も
墓も
法事もいらん、そんな事に力を入れるんじゃないぞ、一日も急いで
信心決定て魂の解決をしてくれよ」
と叫び続けてゆかれた事実を坊主始め皆さんは何と思われるのでありましょうか。
先日、東京の坊主百人が集まって現代の仏教観と題してテレビで話しておりましたが、その内容たるや、仏教とは現世利益を教え、又人間完成を教えるものとして道徳や倫理に毛の生えた様なものが仏教であると答えたものが何と93人、如来聖人が生命をかけて叫ばれた「
後生の一大事」を解決する為と答えたものはたったの7人というありさまでありました。
知らないという事は恐ろしい事であります。
如来の真意を知って叫ばないなら尚悪魔の坊主といわねばなりません。
坊主よ目を醒ませ、
寺に生まれればそのまま
極楽行きが決っているとでも思っているのではないのか。
赤い衣に紫のケサ掛けているまでは仏法の宝は手に入らないぞ。
我身の後生の一大事に驚き、峻烈極める求道がやがて信心決定!
南無六字の宝が与えられるのを知らないのか!!。
後生の一大事を忘れた仏法は仏作って,魂入れず、せみの抜けがらである事を銘記すべきときなのであります。
かって
親鸞聖人が84才にして邪義を唱える我子
善鸞に対して
「今や親と思うことあるべからず、子と思うこと思い切りたり」
と再三の誡めにもかかわらず邪義を改めなかった我子善鸞を義別なされた如く、
未だ
葬式仏教、
法事仏教また現世利益や人間完成が真の仏教であるといつまでも善男善女をだまし如来の真意に反逆し続ける東西本願寺を、我々は今こそ如来聖人に成代わり断固義別し、真実一路厳しく破邪顕正の一生を貫かれた聖人の御後に続かなければならない秋が来たのであります。
今や人間の思想は乱れ
「
死後の世界なんかあるものか、そんなつまらん事を考えている奴は人生の敗残者だ」
とうそぶく者がいるが、それは真実か!
今
死んだらどうなると、自分の魂にワラジをはかせて見よ!
抱いた人生の夢も希望も一瞬の夢と消える現実をどう否定するというのか!
一度は来る死の対策、後生の対策がなされているのか!
今や一息切れるという足元を忘れて、うかれ踊ってさわいでいる者に一体誰が真実の仏法を説き切るのか。
それは仏教界広しと難も我が恩師親鸞聖人を師と仰ぐ親鸞学徒より外にないのであります
怒涛逆巻く濁乱の世にサン然と輝く祖師聖人の現生不退、
平生業成の教え、70億の同朋が生命をかけて求めなければならない絶対の幸福、不滅の大道は我らが
浄土真宗の法話によって明らかに明らかに説き切られている事実を凝視しなければならないのであります。
今や半狂人は野放しにされ、百鬼横行の五濁の時機に「知行は合一つ也」の格言の如く、我々は生命の危険と苦痛をものともしないで真実の絶壁にいどみ、日々顕正戦に立ち、たとえ、しめ殺されようとも進まなければならない。不滅の大道は退く事は許されないのであります。
我々親鸞学徒の人生の勝敗は最後の一息切れる時にあり!
共に如来聖人の御教えに殉死しようではありませんか。