福井に住むある布教師は、
親鸞聖人の一言も仰言らない事を同行達に教え、
そして皆を
地獄へ引張り込んでいる悪魔の坊主です。
悪魔というのを悪いという人がいるが、
しかしこの人だけが
地獄へ行くのなら
自業自得ともいえよう。
しかし本まで出し、みんなに読ませ、説教しているわけですから、
皆んなを地獄へ引きづり込むところの悪知識であります。
お経の中に百人の人を殺したよりも千人の人を殺害したよりも恐ろしいといわれているのが、
この法謗罪という大罪であり、真実をネジ曲げる
僧侶こそその人であると思います。
だから悪魔の坊主というくらいではまだまだすまない。
今日限り如来聖人の前で腹を切ってお詑びをすべきである。
後生の一大事は、生やさしい問題ではない。
だからいつも善知識は仰言っておられます。
皆さんの前に立って
浄土真宗の法話をしている時は、命を懸けている。
「もし」この私の言う事に間違ったことがあったなら、
いつでも如来聖人の前で腹を十文字にかき切ってお詑びをすると。
それだけの責任感を持って私達に話をして下されているではありませんか。
まして況んや、
親鸞聖人、
蓮如上人の一言も仰言らない事を書き
又、説法して沢山の同行者をだまし地獄へつき落しているこの責任をどう取るのか。
こんな一大事な間違ったことを書き、
読ませておりながら誰も追求する者がいないのならばと、
真実に目ざめた私達青年部が皆さんに変って追求しなければならないと
ここに立ち上ったのでございます。
その為にどんな非難攻撃を受けようとも覚悟の上、やっているのです。
名誉の為でもなければ、あるいは利害打算、損得の為にやっているのでもありません。
沢山の人達が今、真暗な奈落の底へ落ちこもうとしている。
皆さん、この場合どうしますか。
目くらが杖一本をたよりに今、断崖絶壁に立っている事も知らず、
一歩前へ踏み出したならば、底の知れない千じんの谷底であります。
全く危険な所に立っているのを目のあいている我々が後で黙って見ていることが出来ますか。
叫び飛んで行って、抱きかええて安全な場所へ連れて行くのが人情ではないでしょうか。
これが
仏教を聞いている者の当然の姿ではないか。
だから
親鸞聖人は人から気狂いといわれようが、悪魔といわれようが何んといわれようが、
たとえ流刑にあい、死刑を覚悟の上で破邪顕正されたのも、
末代の私達に何とかして真実の教えを残してゆかなければならないとの
御親切、御苦労ではなかったか。
誰が子供をにくい親がいるでしようか。
誰が親と別れたい子供がいるでしょうか。
この親子の深い
因縁をも、もはやこれまでと切っておられるのも、
「唯一つ」末代の衆生が可愛いい、
多くの同行達を地獄へつき落す事は絶対にできないという
聖人のあたたかいあたたかいお心があったなればこそではないか。
この尊い聖人のお心を思う時に、親鸞学徒また破邪顕正をせずにおれない。
だから立ち上ったのでございます。
善知識始め、私達青年部は戦いを好んでやっているのではありません。
善知識は絶対の平和主義者です。
人と仲良くする事を一番望んでおられます。
けれどもこの
阿弥陀仏の本願をネジ曲げるような者は、断じて許す訳にはゆかない。
なぜか、この阿弥陀仏の本願によって絶対の幸せに救われた善知識は、
この
阿弥陀如来に御恩返しをしなければならない。
この
阿弥陀如来の御恩返しは、
阿弥陀仏の本願を正しく教える事だと言っておられるからでございます。
今や親鸞聖人の真実を開顕出来るのは、世界広しと錐も、
わが善知識の外にはどこにも見あたりません。
親鸞学徒の皆さん。
真実
浄土真宗の教えは、親鸞会からめばえて、
再び大きく大きく発展しようとしているのであります。