以前、テレビに新聞に「現代青年の生きがい」等と称するレポートが度々取上げられて興味深いが、いつの場合もおおよそ次の二つのケースに結集されている様である。
その一つはまづ理想の配偶者を得て、より多く稼ぎ、家を建て、子供の成長に夢をつなぐという、いわばマイホーム主義。
もう一つはどうせこの世は思うようにならぬところだから、その時その時を精いっぱいおもしろおかしく亨楽すれば、それ以上に人生の意義などあるものか、とうそぶく。
刹那的快楽主義とでも言えるものである。
ところがどうであろうか、前者を取る者も、後者を取る者も、やがてはそれらが
「みせかけの幸せ」
「みせかけの喜び」
であった事に気づいて不平と不満の日暮しに終始することになるのである。
「歓楽つきて哀感極まる」という諺があるが、全くその通りではないか。
生きる意味を知らない青年達は自らの持つその豊かなエネルギーの使い方が判らず、
暗中模索の苦悩を強いられているのである。
その一端の現われが過日世間をさわがせた事件であろう。
これらの苦悩を解決する一生を賭けても悔いの無い尊い目標を仏教は教えているのである。