越えなばと思いし峰にきてみればなお行先は山路なりけり。
浄土真宗の講師になろうと思って、最初の内は無我夢中で生活していたが少しずつ自分を見つめる余裕の出てきた時、この歌を実感として味うことができた。
しかし今も又この歌を別な意味で更に力強く味っている。
私の登ろうとしている山はちょっとやそっとで登れる由ではない。
自分の背たけよりも高い、強靱なクマザサの密生している道。
踏みつけてもふみつけてもみる間にぴんとはねかえり前と後をふさいでしまい、自分の体がすっぽりとうずもれてしまう。
のどはかわき、足はふらつきあえぎ乍らささをかきわけて進む。
時々前が見えなくなって泣き出しそうになる時力強い
親鸞聖人の御声がきこえてくる
「その道を行け、行けば必ず弥陀の法水をたらふく飲める泉がある」
私に残された、たった一つの原動力は
親鸞聖人のこの言葉のみ。
親鸞聖人のこの言葉一つをたよりに私はただひたすら進む。
何も言わずに何も考えずに…。