私は定時制在学中、将来の進むべき道とて歌謡曲の作詩の道を選びました。
その頃の私は社会が定時制と全日制とを厳しく
差別することにいたたまれなく、
なんとか自由な実力の世界を求めておりました。
そんな時でした。
「アカシヤの雨が止む時」のあの唄に始めて心の安らぎを感じたのです。
私はあの唄を聞きながら、自分の暗い心が、
寂しい心が和いでいくのを知った時、人間の苦しさ、悲しさ等を少しでも和げる事ができたらどんなに素晴しいかと、作詩の道に青春の情熱を賭けたのです。
ともかくやってやれない事はない。
私は一生懸命あの白い原稿用紙と取り組みました。
しかし作詩の道は厳しく、体験を要する心の世界でありました。
恋も愛も知らなかった私、なんで大人の恋なんか書けましょう。
酸いも辛いも弁えた中年の人でさえ難しい道なのに、まして私みたいな若輩者にと、やけになりながらもどうしてか、この道から足を洗う事ができませんでした。
そんな姿を見るに見かねてか、作詩の先生は一度上京する事を勧めて下さいました。
私は一も二もなくその言葉に飛びつき一路東京へと向かったのです。
そうしたら何ともいえない魅力に引きつけられ、後は詩よりも先生を慕う心の方が強くなっていってしまったのです。
これが愛とは知らなかった私は、なぜ自分がこんなに苦しいのか判らず、又、先生も苦しまれている様子に、何をどうしてよいのか判りませんでした。
迷った末、離れる事が一番だと思い、愛着一杯の心で先生の元を離れたのです。
離れてみて始めて、未練、淋しさというものを知らされた私、どこへもこの心のやり場はなく、一度は止めようと思った作詩の道でしたが、再びこの心を原稿用紙にぶっつけたのです。
皮肉にもこれこそ体験から出たものと認められ、私の世に問う第一作となったのです。
それからというものはあらゆる機会をつかまえて、夢中になって勉強しました。
しかしそこでいつもぶち当る壁が必ず愛という事でした。
私は愛を知れば知る程、わからなくなり、それでも尚求めずにおれない自分に苦しんでおりました。
私は先生にあわせて頂くなり「愛とは
善ですか
悪ですか」と尋ねずにはおれませんでした。
先生は「愛そのものは善でもなければ悪でもない。
その愛の善悪は縁によって決まるのだ」
と教えて下さいました。
そして人間から愛を取る事ができないとするならば、愛も
欲望であり、私達は一生苦しみから逃れる事ができません。
それが
仏教によって必ず抜苦与楽の身になれるのだと、
親鸞聖人は仰言るけれど、信仰の浅い私にはどうしても判りませんでした。
そんな時、突然、父が交通事故にあったという知らせを受けたのです。
私は車の中で零れる涙をかみしめながら、せめてせめて臨終説法が間に合う様にと、祈らずにはおれませんでした。
親不孝の限りを尽してきた私、今まで親鸞聖人からお聞きしてきた万分の一でもいい、お父ちゃんに話してあげたいと、必死で願った甲斐も空しく病院へ着いた時はもう息絶えておりました。
私は泣く事さえも忘れただ茫然としておりました。
しかしボーッとばかりもしておれず、やがて正気に戻ってから
「さあ私にも死がやってくるぞ、その覚悟はどうか」
と自分に尋ねた時、かすかな
不安な心が、さえぎるだけで、テレーン、キョロンの心は変りありませんでした。
この事を先生にお話しすると、
「死人を見て驚くなら、医者や
僧侶はとっくに驚いている。
驚き立つ心はひとえに宿善しかないのですよ」
と教えられ、この時始めてこの苦しみを除くには宿善以外にない事の重大さを知らされました。
日頃、幾度も幾度も
浄土真宗の法話でお聞きしていながら聞いていなかった私、父は、こんな私に「早く宿善を積んでくれ、お父ちゃんみたいに
地獄へ堕ちてくれるなよ」
と声なき遺言を残してくれたのです。
これからの私は、何が何でも宿善一筋に、どんな姿になってでも、使命である破邪顕正に邁進し、
平生業成に輝く
浄土真宗の教えがこの胸に輝くまで、がんばる覚悟であります。
絶対の幸福を体験なされた善知識に従わずして、どうして絶対の幸福になれるのか、この事を肝に命じて、これからの私の道しるべと致します。
どうぞよろしくお願い致します。