私が仏法を聞かせて頂くようになって最初に顕正を思いたったのはある友人であった。
その夜は雪降る寒い日であったが最初の顕正とあって張切って出かけた。
私はまず、
親鸞学徒の一員として仏法を求めている事を話し、またすべての人は仏法を聞かなければならない事を話した。
しかし第一回目は全然うけつけて貰えず、とても話し合うという段階ではなかった。
帰りの足は重かった。
しかし仏法は真実だ、必ず聞いてもらえるに違いないと私の心にはますますファイトが湧いてきた。
二度目の戸をたたいたのはそれから二週間目であった。
その時は人生の究極の目的について、本当の
生きる意味について、大宇宙の中の自己の存在、この自己が明らかにならなければ何の為の人生か!!今死ぬとなっても微動だにもしない金剛の如き幸福のある事を夜遅くまで話した。
しかし悲しいかな相対の限界で一向に話は進まずどうしたらわかって貫えるかと自分の力の無いのがはがゆかった。
人間は幸福を願っている。
平和で自由な安楽な世界を、しかもそれがいつまでも滅びないように……。
しかし現実はいかようであろうか。
昔も今も争い多く、暗く
不安人民の苦悩は解決されず、すべてが亡びてゆく。
後生の一大事を解決しない限り有っても無くても生きるも死ぬも苦ではないか。
この現実を凝視する時、真実の仏法を聞き大宇宙の真実に目覚めること以外に真の幸福はあり得ない。
心も新たに三たび彼の家を訪れた。
しかし彼はいった。
「なる程
仏教を聞く事はよい事だ、しかし私は命をかけて求める気にはなれない」
とその時私は敢然と言った。
「生ある者は必ず死ぬのです。もしあなたが死なないならば私は説かない」と。
「死の前にはどんな信念も、どんな
幸せも一切吹きとんでしまうんですよ。
死後の世界を認める人も認めない人にも有るものは有る。
地獄があると思う人にも無いと思っている人にもあるものはあるんです」
この言葉に彼は驚いた様子だった。
それからも何回となく足を運んだ。
ブッダに娑婆往来八千遍のご苦労をかけていながら、まだケロンとしているのは一体どこの誰か。
この仏法嫌いな私に真実の仏法の杭を打ち込んで下された善知識、法の友の御恩が、戸をたたく苦しみを吹き飛ばしてくれた。
彼は後、
浄土真宗の御法座に遇い、ついに一年半後に親鸞学徒になった。
彼は「何回も来られたのでこれは何かあると感じた」
と述懐されていたが、
この仏教こそ
聖徳太子が言われるように四生の終帰であり万国の極宗なのだ。
生きてよし死んでよしの絶対の幸福を体験するのだ。
真剣に勇気と
努力をもって前進しよう。
人が耳を傾けて下さるのはただ一つ真実一杯の気迫であり熱なのだ。
皆さん共にがんばろう。