本当におめでたいのか
「無益の歳末の礼かな」
ある年、歳末の礼に来た多くの人々に向って
「人並な歳末の礼は聞きたくはない。それよりも早く信心決定してくれることが蓮如の最も嬉しいことなのだ。歳末の礼には早く信心をとってくれ」
と喝破なされたものである。
猫も杓子も年が改まると
「おめでとうおめでとう」
というが、本当におめでたいのであろうかと反省してみたことがあるのだろうか。
一休がうたったごとく、それは
「
冥土の旅の一里塚」
に間違いないのだ。
縁起がよかろうが悪かろうが、一年間自分の命がちぢまったことであり、最もイヤな死に近ずいたことではないか。
ちょっと身体の調子が悪いとすぐに医者じゃ薬じゃ病院じゃと騒ぐのも所詮は死にたくないからではないか。
金じゃ、財産じゃ、名誉じゃ、色欲じゃと求めるのも生きておればこそのことであって、死に臨めば画餅の如く瓦れきに等しいものになるではないか。
新年とか新春といえば、そのように思えないが最も怖ろしい死に一歩近よったことに間違いないのだ。
どんな理屈を並べてみても誰人がこの厳粛な事実を否定することができようぞ。
しかも多くの人々は、この冷厳な事実に眼を覆って徒らに習慣的に
「おめでとうおめでとう」
と言っているけれども、その人の頭が
「おめでたい」
ということではないのか。
無自覚も甚しい。
自己疎外もその極と言わなければならない。
夢を食う生物
蓮如上人のお言葉が常に百雷の如き驚きを与えるのは、真実の金言だからである。
「世の人々よ、お前達は一体何を求めて生きているのか。何を生き甲斐として働いているのか。何を楽しみとして働いているのか。
生きる意味が判っているのかい。
金か、財産か、女か男か、名誉か地位か、子供の成長か、衣食住は何んの為に求められているのか。
お前の生命がけに求めているものは凡て、やがて亡び去るものばかりではないか。
お前は一切のそれらに捨てられる時が必ず来ることを知っているのか。
生れ難い人生だ。
地球よりも重い生命だ。
そんな、たわいもないものを目的として生きているのではないということがまだ判らんのか。
大体、そんなもので本当にお前の魂は満足出来ると本気に思っているのか。
どれだけの金を儲けたらお前の心は満足するのだ。
どれ程の財産を作ったら安心して死ねるのだ。
どれだけの人からほめられ尊敬されたらお前の名誉心は満足するのだ。
どれだけの女を自由にしたら満たされ切るのか。
どんな子供になったらお前は安心出来るのか。
こうもなったら、ああもなったら満足できる、安心できると思っているであろうが、お気毒だがみんなお前の
儚い夢なのだ。
夢を喰って生きているバクのようにお前も永遠に満たされない夢を見て苦しんでいるのだ。
考える人間
「おごらざる者もまた久しからず、露とおき露と消えぬる我身かな、浪華のことは夢のまた夢」の大閤秀吉の辞世はそれを証明しているではないか。
犬や猫は叩かれればキャンとかニャンとか叫んで逃げるだけだ。
しかし人間は違うのだ。
なぜ叩かれねばならなかったのか。
叩かれんようにするにはどうすればよいのかと考えるところに人間は万物の霊長といわれるのだ。
叩かれねば性根がつかんようでは最低だ。
一歩進んで我々は仏の教えによって鞭影に驚かねばならぬ。
無常の鞭に打たれてからは手おくれなのだ。打たれた時は次の世界で泣く泣く
業を果たさねばならぬではないか。
されば一刻も早く
阿弥陀如来の無量寿、無量光の生命を頂戴して死んでよし生きてよしの大満足大安心の身になることこそ人生出世の本懐なのだ。これを信心決定するというのだ」
このように蓮如上人は今も尚叫びつづけていられる。
我々も早く
信心をとって新年の御礼にしようではないか。
「元旦や、おめでたいとは金剛の他力の信を獲たる人にこそあれ」