浄土真宗の御法座が終って、
今日のお話の最後のところは先生のあふれる喜びが、鉄砲玉の様に飛び出してくるようで私達はただ如聾如唖のようでした。
ただ私達には想像も出来ぬ絶対の世界であるということだけが感じられました。
それが判れば良いのだ。
私達には想像も出来ぬが何かある。
その何かを感ぜられたらね。
でも「絶対の幸福がある」と言われても余りにも高く感ぜられて
「とても私などなれない」すぐそういう風に思ってしまうのです。
いやそうではないのだ。
私のような者でさえ救われたのだから、誰でもなれる。
私が若し法然上人のように賢善精進を励んでいるなら君達がそう思うのも無理はないかも知れないが、私は全く君達と同じ生活だろう。
それは私の日常を見ていればよく判るだろう。
私は君達と、どこも違ったところなどないのだ。
その私の上にどのように仏教が生きているか、仏法によってどのように私が生かされているか、それを見て欲しい。
私が救われたということはみんな救われると言う何よりの証拠だ。
だから私はそれを、この私の首をかけて叫び続けているのだ。
はい、その何かが判るまで進ませて頂きます。