湯川秀樹博士の弁
人間あっての文明であり、学問である筈の
科学が余りにも専門化、
細分化され、本来の道を見失っている現状について、
湯川秀樹博士はその著『現代科学と人間』の中で、
極端に細分化された自然科学は今後、総合化へ向って進み、
精神科学を含めたすべての学問が一つの哲学のもとに統一されるであろうと語り、
20世紀の後半の課題として生命現象の研究を上げている。
現に蛋白質の分子構造から核酸、ビールスと生命物質の本体が明らかにされつつあるが、
生物学的に生命の物埋化学的な現象の追求はあれども、
生命そのものの本質は究明されていないし、
木の葉一枚造り出すことか出来ないのが現状である。
精神科学は仏教で完成されている
仏教で説くところの生命の実体は三世因果の大道埋に説かれている様に
無始以来生命の底を脈々と流れているものであり、生死はその一つの現象である。
我々が今ここに存在するのもそれが縁により生物としての構造機能を得、
いわゆる阿頼耶識の統一の原理により生かされているのであって、
この事は未だ科学で究明され得ないのである。
いわんや生命の恨本に源を発している人生の諸問題、
苦悩や
欲望の解決は遠く現代科学からは求め得られない。
先に精神科学が遅れていると述べたか、
これは我々仏教徒の責任といえる。
なぜならその本質において2600年前にすでに究明立証せられ、
近くは700年の昔に
親鸞聖人こよって立派に体験的、学問的に完成されているからである。
キリスト教に限界をみた西洋の思想家がこぞって東洋の
哲学に注目し聖人の『
教行信証』に驚嘆の意を表わすのも無理からぬことである。
精神科学が遅れているというのは、完成されてはいるがその教えが余りにも深遠なるが故、
理解体験する人が少くその普及が遅れているからに他ならない。
ましてこの教が絶対の境地に立脚している以上これを超える教が無い今、
迷い多く苦悩より離れ切れない人間のすべてが帰依しなけれはならない教であれば、
あらゆる科学も学問もこれをめざし、ここから出発すべきである。
科学を知る者は科学の限界も知る
物質文明が我々にもたらす恩恵は大きい。
その恩恵を感ずるものはといえば私達の心である。
しかし我々の心の充足は物質によってすべてが満たされるものでないことは
日々の生活から承知の事である。
確固たる精神科学の上に立ち人類の発展と幸福をめざし、
人間探求の上に科学が立脚しなかったならば正常な発展とはいえない。
しかし世のインテリは自己の立場の保持上、
知識人ぶり
仏教に対する無知から
どんな問題も科学で解決されるといわゆる科学万能説をふりかざす。
人間の幸福の追求から科学が発達したと常に科学を見つめ、
科学の本質、限界を知る真の科学者はかりそめにも科学万能を口にしない。
より人間的なものを求めている。
知識人はもっと
浄土真宗の法話を聞くべきであろう。