このようなわけで当時の日本においては
神社の
神に対しては
本地は仏、
菩薩、神は権にあらわれた姿ということを認めなければ、
今日の法律以上の恐ろしい権力をもって迫害されるおそれがありました。
これに反することは権力階級であった
天台宗、
真言宗などの諸寺諸山を始め
これに同調していた権力社会が絶対に許さなかったのです。
その根拠は種々、あげられますが今は省略致します。
そこで
蓮如上人は一応、当時の権力階級が
かくいわねば許さなかったところの権社の神は、
南無阿弥陀仏の内にこもれるが故に六字の御名を聞く者は
これをおろそかにすべきではないが、
とりわけ神に仕えるべきではないといって、
敬遠主義をとっておられるのです。
これを
浄土真宗の人達は諸神はいのりさえしなければ、
神につかえてもよいように思っている人がいるが、
敬して遠ざかるべきで、近づくべきではないことを
よくよく知らねばなりませぬ。
故に蓮如上人の申された諸神は、
キリスト教の神でもなければ実社の神でもありません。
当時の権社の神でありますがそれも明治4年より神仏分離の法令によって、
一切の神社から仏像は勿論、
僧侶もその他仏教関係の器具名称まで追放されましたから
権社も今日はありません。
故に今日の日本の神社の神の凡ては実類を祀ったものでありますから、
名号六字のものでないことは言うまでもありません。
されば蓮如上人が『
御文章』にしばしば
「一切の諸神等を捨てて弥陀一仏をたのむべし」
と申されているところの一切の諸神は、
かの時代の権社の神といわれていたものは勿論、
実社の神など悉く神といわれるものすべてに
仰言ったものです。
浄土真宗の法話をよくよく
聴聞してよく知って頂きたいと思います。