福井での
浄土真宗の御法座が終って帰る善知識のお車の中で、外は雨が降ったり止んだりしていた。
「降ったり止んだりすれば良い方で、雨が降ることさえないのだ。
やらないのだもの仏法がまだ始まっていないんだ」
「
御文章は、いつも持って歩いて暇さえあれば読みなさいと言っているのに、聴聞の時すら持ってきていない。
私の言った通りに何事でもやらないのだもの助かるはずがない」
本当に宿善を求めているのか。
後生の一大事を解決しようとしているのか。
一体何を求めているのかと自問した時、
親鸞聖人のおっしゃる通りに何一つやっていない事ばかり知らされる。
「苦しみのどん底に落ちきるまで、聴聞あるのみだ。
ロボットになってもよい。
教えのままに行動しなさい」
仏法は体にかけて知らされる行学なのだ。
後生の一大事を解決する為には、すべてを犠牲にしてもよい、
親鸞聖人のお言葉の通りに、体にかけてやるだけなのだ。