慌しい大晦日も一夜明けると新年とかわり、
交わされる挨拶もおめでとうおめでとうの連発、
私も恥かしいながらその仲間、深く考えもせずに繰返して来ましたが、
浄土真宗の御法話を聴かせていただいているうちに、
何がおめでたいのかと反問したくなりました。
世間には随分無責任な言葉があるものですが、
新年の挨拶位空々しい実のない言葉もないでしょう。
誰彼おかまいなしに真面目くさって交すしらじらしさ……
死が、
地獄が、火の車が近づくというのに何がおめでたいのです。
「元旦やおめでたいとは金剛の信を獲たる人にこそあれ」の句のように、
本当に心の底から申し合いたいものです。
大切な尊い月日を無為にすごし、徒らに馬令を重ねた今……
以前、
浄土真宗で
「50才過ぎたら
信心決定の見込み殆んどなし」
と言われた時は鉄槌で頭を殴られた思いでした。
今宵も知れぬ命を持ちながら何故に急がぬのだと心を責め、時には夜半起き出しては
後生の一大事だぞと言い聞かせるのですが、思いはいつもあらぬ方向へとそれてしまいます。
でも真実の仏法を聴かせていただき漸くにして
生きる意味を教えてもらったからには、
一大目的達成の為にひたすらに
聴聞に励みます。
親鸞学徒の皆様共々に頑張りましょう。