正月の十五日この日、富山のあるお宅において昼に始まった座談会は
夜半になってもなお熱烈をきわめ座を立つものもない。
外は吹雪の音すさまじく、内は魂の一大事にかけた親鸞学徒の方々の必至の
聴聞と問答!
これは
餓鬼が自分の頭を割っては食、食べては泣いて
後悔する姿である。
『頭が娑婆におった時仏法聞かなかったから、
頭がおぼえたの知ったの合点したのと言うて
大事の魂に聞かせなかったから、
こんなに苦まなければならんのだ!』
と自分の頭をたたいて泣き叫んでいる
餓鬼の姿であった。
ところがこの幻灯を見て帰られた向いの中山さんの奥様が家に帰って驚かれた、
と云うのはこの間から病気のため床についておられた今年85才になられたおじいさんが、
実は今幻灯で見て来たと同じことをやり始められたからである。
このおじいさん特に三日前から病気がはげしく
『助けてくれ!弱ったア!』
と頭をかかえて何辺も何辺ももだえ泣き苦んでおられると言うことで
御家族の方々はただ病気のせいだろうと思って
昼夜ひまなく看病につくしておられた。
ところがその晩から特にはげしくもがかれ
とても見ているにたえなえほどであったとのこと、
そこで家族の方は
『どうもこの様子はたごごととは思われない、
もしかすると後生の大事!では?」
そう気付かれたらしくさっそく夜明を待って私のところへ呼びに来られた。
まさに臨終説法である!
しかしおじいさんに逢って私は驚いた。
今まで人の臨終にはよく合うたが、
このおじいさんの場合は全く様子が異っていた。
姿のやせほそり顔色の変りたる様子は他の人と同じく臨終の姿であるが、
しかしその血走った眼と悲愴な叫びは
ただの臨終とは違っている。
肉体は死んでも魂は死ねないのだ、
この老人は後生の大事一つで生命を永えておられるのだ。
手と体をぶちふるわせながら
『助けてくれ!弱った!』
と、くりかえしくりかえし叫ばれる声は
とてもこの世の叫びとは思われないほどのものであった。
やがて私の姿に気付かれたおじいさんは、
ふるえる手を私の手にからませて叫ぼれた
『先生!たすけて下はれー!』
そこで私は大きな声で
『おじいさん!死後くらいか!』
と尋ねると
『先生たすけて下はれ!助けて下はれー!』
と死ものぐるいにすがられた。
まさに後生の一大事!である。
この時家族の方々は一時にワッと泣かれた、
今まではただ病気で泣き叫んでおられるとばかり思うていたのが
今明かに後生の大事と聞かされ驚かれたものである。
『おじいさん!聞いたのおぼえたの合点したのが間に合わんでしょう!』
『間に合わん!間に合わん!』
と言って頭をかかえて泣かれる、
『おじいさん!後生の大事はごまかしでは通らんですぞ!
おじいさん!その暗いまんま、そのおそろしいまんま堕ちてゆくんですぞ!
それがあんたの自性じゃがね!』
おじいさん必至に手を合せて
『阿弥陀さまー助けて下はれ!助けて下はれ!』
そこで私は弥陀の本願を書いてある聖典を開き
『おじいさん弥陀は信ずる衆生を摂取といわれる仏ですぞ!』
『ハイ!信ずる他にない、おまかせやおまかせや……』
『おじいさん疑いありませんね?本当にまかせましたね?』
『助けて下はれ!』
とまた叫ばれる
『おじいさん!あんた今まかせたと言ったばっかりでしょう!
仏にまかさせた身がなんで助けてくれと言わねばならんのかね!』
『ハイ!おまかせします』
しかしそれもつかの間また
『助けてくれ!』
と叫ばれる。
まかせたまかせたと頭でいくらおさえつけても
腹底から出てくる業病は別である。
おじいさんはそれに苦み泣き叫んでおられるのであります。
解ったの、まかせたのは頭のサルでどうにもこうにも
おさまりのつかんのがじいさんの自性である。
このおじいさん三日四晩泣き叫んで、
知らされて来るものはただ
地獄一定の我身に他ならない。
『おじいさん!どうもならんのです。堕つるしかないのです』
力も言葉もたえはてたおじいさんはただ手を合せて泣いておられる
『どうもならん!堕ちてゆくしかない』
と、まさに一息一息臨終がつまっているように感じられた。
この時の悲愴な空気はとても居合せた人でなければわからない。
泣き悲しまれる家族や親戚の方々をあとに寂しく家を出た。
30分後福野町の保里さん宅に着いたのですが、
この時お宿の保里さんが私に意外なことを申された
『今電話であのおじいさんが信心決定なされたと
家族の方々がよろしくおつたえ下さいと
それはそれは大変なお喜びでございました』
と涙ぐんでおっしゃられた。私も思わず泣いた。
あのおじいさんの喜びの
念仏が聞えてくるようでした。
三日四晩もがき叫ばれたおじいさん、
医者も薬も及ばなかった後生の大事、
あれが出てきて喜ばれたとあれば、
まさに弥陀の本願がまことに徹底したのでしょう。
その後のおじいさんの御様子を、お孫さんの幾代さんからお手紙で書いてこられた。
その一文をかかげさせて頂くと
『……とにかく私の目の前で信心決定と言うすばらしいことが……
ああ私は日本中の人、イヤ世界中の人にこの
不思議の場を見て貰いたかった……
あの日以後のおじいさんは
「ありがたい、もったいない」の一点張りで、
おこしてあげても、さすってあげてもただ
ばかりでこんなにも変われば変わるものかとただもったいないやら不思議やら、……』
幾代と書いて下さいました。
まことに如来の本願たのもしく、老少善悪の人をえらばれず、
このおじいさん85才にて決定の大益、
行者まさしく不退なれ! 合掌