聞法者が苦み悩むのは、たすける本願が真実だからである。
本願がただの口約束なら、毎日朝から晩まで
欲望ばかりにはせ使われている人間が、
どうして仏を求めて今苦むのか?
こんな心は元来人間に有るものでは無い!!
私が仏法に苦しむのは、仏の光明の縁を受けているからである。
凡夫が
聴聞に苦しむのはちょうど炭に火のついたようなもので、
火の力が強くなればなるほど炭が焼こがれる如く、
聞法者の苦しみも如来の力が加われば加わるほど苦しみもはげしくなるのだ。
おのれの魔性が現え来るからだ!!
『ありがたき法とは知れどこの法を、極難信と知るはまれなり』
と言われる如く聞法の道はけわしいのだ!!
おかる同行が『まこと聞くのはお前はイヤか、何がのぞみであるぞいな』
と泣いているように。
あんたばかりがつらいのではない、誰もがそこを通るのだ。
ここでへたばる者は無宿善だ!!
もともと仏縁が無ったのだ!!
三途の黒闇と強縁なのだ!!
五年や十年が何だ、と言うのか、宿善厚者はあきらめぬ
『ここ一つ聞くまでは、ずってでもほうてでも聞きぬくぞ!』
と、行者まさしく不退なれ!!
如来の本願にいつわり無い。
このこと親鸞聖人は『如来の本願まことにおわしまさば』と感激なされ、
また
蓮如上人は『至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、水よく石を穿つ……
いかに不信深くとも、聴聞を心に入れて申さば、お
慈悲にて候間、信を獲るなり。
只仏法は聴聞に極るなり。
仏法には身を捨て、望み求むる心より信を得ることなり』
と申され、いづれもいずれもみな必ず助るのだい
慈悲の本願力!!
つらいところを泣いて乗切るのが聞法者の道!!
善知識の化導に入りて手をむなしくして堕えることなかれ!!
南無阿弥陀仏