私の近所に、お
寺さんなら、説教される人なら、
どなたの話を聞いても同じだと言う人がありますが、
本当に誰人に聞いてもよいのでしょうか。お尋ね致します。
よく尋ねられる大事な問題です。
仏教では、仏の教を我々に伝えて下される人を知識といいます。
この知識に悪知識と善知識があると説かれています。
悪知識といいますのは自分自身が仏の教の真実がハッキリ判らない人だ、
だから他人に話す時でも、真実を教え切れないのは当然です。
蓮如上人は「
わが身が信心決定せずして、他人に信心決定させることは出来ぬ。
自分が物を持たずして、他人に与えることが出来ないのと同じだ」(御一代聞書)
と教えていられます。
そこで大体こんなことだろうと自分の迷いの考えを混入して
仏の教えを解釈して他人に教えますから、
とんでもない間違ったことを仏の教にしてしまいます。
そして多くの人々を苦しめ
地獄へ叩き堕すことになるのです。
ブッダは「
一盲衆盲を率いて火坑に堕つる」(仏蔵経)
とこれをなげいていられます。
一盲というのは真実の
仏教がわからず、魂の盲目の人。
即ち真実の
信心を獲得していない者のことです。
衆盲とは信仰のない人々。
火坑とは
地獄のことです。
信心決定していない人の話を聞いている者は、この世も苦悩が続くばかりでなく、
未来は必ず
地獄へ堕つるのだから真の仏法の判った善知識を求めて聞けよ
と仰言っているのです。
また知識をえらばねばならぬ例として
「
西へゆく人に随えば西へ行くなり、
東へ行く人に随えば東へ行くなり、
信なぎ人に随えば地獄へ行くなり、
善知識に随えば仏に遇えるなり」
とも教えられています。
親鸞聖人も『
愚禿鈔』の中に知識を七通りに分類してまで
善知識を選んで
聴聞しなければ絶対に助からぬ
ときびしく教えられています。
蓮如上人も「
五重の義」の中で宿善に次いで善知識をあげ、
誰に聞いても助かるという軽い問題ではない、
真の善知識を求めて聞けと仰せになっています。
善導大師も有名な二河白道の譬喩にねんごろにそれをおさとしになっています。
七里恒順師は「
知識は針であり同行は糸だ」と例えていられます。
針が曲つてゆけば糸も曲ってゆかざるを得ません。
針が行きつく所まで行かないと糸も徹底できないのは当然ですから、
針の責任は極めて重大ですし、
糸はきびしく針をえらばねばならないのも当然至極のことであります。