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浄土真宗親鸞会の内部情報と法話の評判

親鸞会がどんな団体か一人でも多くの人に知って頂くため、親鸞会の内部情報を公開していきます。客観的で公正な判断の材料にしてください。

仏教の先生の重要性2

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仏教の先生の重要性2

前回から続きます。

ブッダが多くの弟子を連れて大河の辺りを遊行せられていた時、
小石を手におとりになって弟子達に向って仰言ったことがあります。

「この石を河に投げたら石は浮むだろうか、沈むだろうか」
すべての弟子達は異口同音に
「石である限り、どんな小さなものでも必ず沈みます」
と答えると
「そうであろう、どんな小さな石でも浮かばせる縁がなければ沈むであろう。
けれども反対に三尺四方の大石でも水に浮べる方法もあるのだ。
石は沈むが自性だが、そんな大きな石でも、
これを浮ばせる船という縁にさえあえば水に浮ぶことが出来るのだ」
と仰言って、
「どんな極悪人でも善知識に遇うて、その教を聞けば必ず助かることが出来るが、
反対に善人であっても、悪知識に遇うて、その教を聞けば必ず地獄に堕ちて苦しむであろう」
と善悪両知識の利害得失を説いて真剣に善知識を求むべきことを喩されています。

また経典には
「善知識は、これさとりを得る道の大因縁なり」
とか
「聖き法を修めて生死の煩いなき安らけき涅槃の境地に至るを得るは善知識による」
とも説かれいます。また阿難がある時、ブッダに
「善知識はさとりの道の半因縁と思えばよいのでしょうか」
と尋ねた時に
「そうではない、善知識は全因縁である」
とまで答えていられます。

これらの仏説によってもお判りのように、
まことの信心決定した善知識を求め探して聞法しなければ、
いかに真剣に聴聞しても助かることがありません。

どなたに聞いてもよかろうなどと考えている人はとんでもない間違いです。
後生の一大事ということが本当に判っていない人の言うことです。
このような言葉を吐く人は信仰の極く浅い人に限られていますから注意して下さい。
このような幼稚園の信心の人の言葉に惑わず、
善知識があったら十里二十里はおろか、海山越えても馳せ参じて、
その善知識を仏の如く敬うて身肉手足をも供養すべきであると
『般舟三昧経』には教えられています。

では、どんな人が真の善知識なのか、その判定はどのようにすればよいのか、
は次の問題ですが、
所詮は深い宿善がなければ善知識の教えには遇えないと思われます。

「真の知識に値うことは、
 難きが中になお難し
 流転輪廻のきわなきは、
 疑情のさわりにしくぞなき」

「昿劫多生の間にも、
 出離の強縁知らざりき、
 本師源空いまさずば、
 この度むなしくすぎなまし」

親鸞聖人の御慶びが察せられるじゃありませんか。
「まことに宿善まかせ」
と仰言った蓮如上人のお言葉も身に泌みることです。
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