一言おたずね申します。
『蓮如上人御一代聞書』の中に
「当流には絵像よりも名号というなり」
と仰せになったとありますが、
私は絵像の尊形の方がより有難く礼拝するのですが、
上人さまの御言葉が合点参りません。
どんな訳で絵像、木像より名号と仰言ったのかきかせて下さい。
蓮如上人が『御一代聞書』70に、
浄土真宗の正しい御本尊は御名号なりと明示なされています。
即ち
「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。
当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
と仰せになっています。
この意味をもう一つハッキリ言いますと、
「他流(迷っている者達)は名号よりは絵像(絵に書いてある
阿弥陀如来)が有難いし、
絵像よりは木像の方がもっと有難く拝めるといっている。
しかし浄土真宗、
親鸞聖人は木像よりは絵像がましだ、絵像よりも御名号が最もよいのだから
真宗の者は皆んな御名号を御本尊とせよ」ということです。
身命を賭して両師に順ぜよ
ところであなたも残念ながら、
御名号よりは絵像の方がより有難く拝めると仰言っているところをみると
まだ浄土真宗の
信心がハッキリ判っておられないということです。
真実の信心さえ獲得すればハッキリすることですが
いまだ信心決定出来ない時は
親鸞聖人や蓮如上人の教えに順う外ありません。
あなたはなぜ「絵像より名号」といわれたのか、
その理由をきいて合点できねば実行しないぞというお気持かもしれませんが、
そんなことはどうでもよろしいではありませんか。
なぜなら親鸞学徒は親鸞聖人や蓮如上人のお言葉は
すべて如来の金言として頂いております。
そして身命を賭して教えに順ずる者です。
一々親鸞聖人や蓮如上人の教導に対して、
その理由をききただし自分が合点出来なければ順わないという態度は
まことに愚かな、廻り道でありましょう。
一切経を何回も読破し真実信心の智恵で導いて下されているのですから
私達はただひたすらに、如来の御言葉と頂き信じ実行するのみです。
無常は迅速、罪悪は深重です。
くだらない詮索をしている中にとりかえしのつかない一大事がやって参ります。
最も早く、助かる道を我々に教えて下されているのですから、
浄土真宗の法話を真剣に
聴聞してただひたすらに実行されることを念じ上げます。