新聞の投書に対する翁久允氏の反論は
「新灯と旧灯」と題して次のようなものであった。
- 『南無阿弥陀仏と表題して書いた随想に戸出のFという教諭さんが
本紙の投書らんに反論して来た。
よんでみると、この教諭先生、何を血迷ったのか判らぬが、
私は敢て相手になろうとは思わぬけれども、この先生のように
「布教の責任ある学者は決して黙過すべきでない」
といったような扇動の仕方で他をケシかけ、
そして自分がその学者に助けられようとする
他力依存的な根性がいやなのである。
私の
南無阿弥陀仏観が、この先生の気に食わなかったら、
それに対して筆剣をふるって来ればよい。
自分がひっこんで責任ある学者に出て来いといっているのだ。
卑怯極まる話である。
親鸞は
仏教に責任を感じたから新しい阿弥陀仏観に入ったのだ。
それが
真宗だ。
親鸞の阿弥陀仏観は今でも新しいのだが、それを売物にしている、
いわゆる「責任ある」人達がカビを生やしているのだ。
親鸞は正信だが滔々たる迷信を流しているのは、その責任ある人達なのだ。
阿弥陀如来とは
真理のことだ。
南無阿弥陀仏とは、その
真理に南無(帰命)することだ。
他灯の光に対して暗灯下「不面目」を感じているよりも、
面目を新たにすることが新しい救いではなかろうか』
これに対して次のような反駁文の投書があった。
また、翁氏から卑怯者と叱られるかも知れないが、
餅は餅屋でなければお客は満足しないだろうと思ったから専門家にまかせたのである。
絵の専門家に向って数学の下手なのはケシカランと怒ってみても仕様のないことだし、
また、専門家が非専門家を、その道で説きつぶすのは赤児の手をねじるよりも易く
面白いことであろうが、それでは大衆の迷妄は解けないのだ。
「よき人の仰せに順いて、すかされ参らせて
地獄に堕ちたりとも更に後悔すべからず」
の身に晴れて満足している者なら、
葬式や
お経の切り売りを使命と考えたり只今の救いを抜きにして
死後の華ふる
浄土を聞かされても迷わないが、
また生長の家や翁氏の言うような漠然とした宇宙の
真理が阿弥陀仏であるなどと云う
こけおどしにものらないが、真実の仏法を知らない大衆の混迷は
深まるばかりであろうと思って過日投書したのであるが、
真宗学者の沈黙は腑におちない。
「偶像を破壊した親鸞の阿弥陀仏観は、今でも新しいのだが、
それを売りものにしている所のいわゆる責任ある人達がカビを生やしているのだ」
と酷評され
「親鸞は正信だが滔々たる迷信を流しているのは、その責任ある人達だ」
とまで烙印されても、無智。蒙味なる老人達の前では説教出来ても
翁氏位の知名人には教化どころか一言半句の破邪も出来ない
真宗の学者は、
不出世の賢者揃いかそれとも内弁慶の腑抜けか、
それとも縁なき衆生と捨てたのか、どちらでもよいと逃げをうっているのか、
それとも自ら旧灯となってカビ薬を売った悪徳を是認したのか、
いずれにしてもこの際、破邪顕正は正義者の義務である。
親鸞覚如、
蓮如上人一人として是を任務とせられなかった方とてはない。
顕正明らかならずして、如何に宗風を宣揚出来よう。
何を以って教祖宗祖の先縦を履行することを憚るのか。
何を血迷っていると言われるか知らぬが立場をかえればみな同じだ。
人の顔色を窺うて場面を糊塗すべきではない。(戸出町 深松賢雄)