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浄土真宗親鸞会の内部情報と法話の評判

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阿弥陀仏を信ずる条件

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阿弥陀仏を信ずる条件

阿弥陀如来を信ずるということには厳しゅくなる条件がある。
どんな条件か?

それは「一心一向」という条件である、
一心一向とはこころ一つに弥陀に向くということである。
すなわち絶対に他の仏や菩薩につかえない心である、
それが「信ずる」ということの条件である、
まことに信心は厳しゅくである。

この条件に順うことの出来ない者は阿弥陀如来を信ずる人間ではない、
またまもられている人間でもない、よくよくきびしい反省をされたい。

だいたい阿弥陀仏を信ずる人間が他の巫女や占い師をたずねる如きはこれ間男の女である。
少し考えて見られるがよい、もし自分の夫が
「妻はこの夫がまもる、だから夫一人を信にして他の男につかえてくれるな」
というているのに、こっそり隣の男に迷うような女が夫を信ずると云えるであろうか、
「それは騙しと裏切りである。人は皆阿弥陀仏をなんと心得ていられるのか、
親鸞聖人は和讃の中に、
 南無阿弥陀仏をとなうれば
 この世の利益きわもなし
 流転輪廻の罪きえて
 定業中夭のぞこりぬ
 
 南無阿弥陀仏をとなうれば
 十方無量の諸仏は
 百重千重囲繞して
 よろこびまもり給うなり。
のありがたい言葉をなんと聞かれるか、
一切諸仏の本師法皇の弥陀如来がまもると申して下されるのを不足に思い、
少し家に災難が続くとはやたたりやさわりと占い師や巫女に迷う、まるでうらぎりである。
それで死ぬ時だけは極楽につれてゆけの根性である。
そんな人間に限って阿弥陀仏をおろそかに思い
仏だんはススケ花は枯れ、お参りもろくもろくつとめない。
浄土真宗の法話聴聞しない。

そんな人間がサワリもタタリもないもんだ。
まるでめくらである。
少しでも仏のお経を読んだものなら阿弥陀仏の尊さ偉大さに頭の下らぬ者はない。
一体こんな尊い如来をいただいている幸福者は誰なのか。
この仏の御命も信ぜずふらふら迷うて歩くうらぎり者は
絶対わが阿弥陀如来の救いはいただけないであろう。

私の子供に一才になる娘があるが夜中の一時頃になるとおどろくように泣き出す。
俗にいう夜泣きである、
近所の婆さんが来てそれはタヌキが来て鼻をなめるからだ巫女にお祈りして貰うたらよいという。
家内もふらふら心配しはじめた。
私は家内を叱った。
「一体お前はそれでも阿弥陀仏を信じているといえるのか!
よしたとえタヌキが来たにしろ阿弥陀仏がまもって下される。
だいたいこの家は先祖代々念仏相続の家だ。
この柱もタタミもカベも皆念仏の法徳に染ぬ所がないのだ。
タヌキどころか私は此の世のサワリやタタリの凡が皆この家屋敷にたずねて来るがよいと思う。
念仏行者は無碍の大道である。
亡霊もタヌキも皆念仏の法徳にうたれ未来の仏縁となってくれるではないか。
諸仏に勝れし大悲の如来にまもられながら一念でも他に心を迷わすことは罪である。
うらぎりである、いよいよもって如来の大悲をしのぶべきである」
というたことがある、その後二、三日して娘の夜泣が止んだ。
きっとタヌキがお礼に来たのだろうと家内と笑ったことがあるが、
阿弥陀仏を信じ一心一向なる者に一切のさわりたたりは存しない。
むしろこの世の災難や苦悩はかえって信仰の喜びとこそなれ
ゆめゆめおそれなぞあるものではない。
信心決定した者はもちろん、
いまだ求信の人も皆共に弥陀を信ずるべきである。
弥陀を信ずる者の条件、それは一心一向ひたすらでなければならない。
それが「信ずる」ことの条件(おきて)である。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
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