10数年間私は求めた、ソクラテス・キリスト。
日蓮・道元・そしてシュバイツアー・親鸞と、
私の傷いた魂はこれらの人々の世界に真実をさがしてかけづり廻ったのだ、
そして最後にたどりついた人こそ親鸞聖人であった。
しかし悲しいかな、いかに親鸞の書物を読み、
浄土真宗の法話を聞いても、如来の仏智を実際に体験した善知識に遇わなかった。
今日
本願寺の学者を始め、多くの仏教学者達がおち入る観念の
宗教即ち
『唯心の
浄土己身の弥陀』
と言うあやしい
仏教学の観念の魔術のとりこに
私もいつの間にかかっていた。
迷うた頭で10年や30年学問したからとて何がわかるのか、
迷うた人間のつけた講師や勧学の位が何になると思うているのか、
所謂人間の迷から出れんのだ。
しかし私は幸せである、もし
親鸞会にお遇いすることが無かったら、
おそらく学者達と同じように頭でこしらえた
宗教で満足して死んだであろう。
親鸞会の講師も
『よくそこから気が付いたね、よくよく仏縁があったのだネ』
とやさしくおっしゃる。私も心の底から
『よかった本当によかった』
と思う。
いかに学問や人格があっても、仏の真実を体験した
善知識の化導を受けない限り凡夫には
絶対に真実の
菩提心は発起しない。
親鸞会の御縁を重ねる度に大信心への
菩提心が発起する、
何と
不思議なことか、何と遇いがたきことか、
私に危ない過去があっただけによけいにうれしい。
この善知識のもとにあって救われないことがあろうか、
仏の救いは必ずある。
絶対途中で投げ出してはならない命がけで求めるのだ、
それが肝要だ!!
十人が十人ながら、百人が百人ながら必ず救うとの
阿弥陀如来である。
とにもかくにも出て聞くのだ!!聞かねばだめだ!!
『聞いてもあかん』と思うのは凡夫の迷いだ!!
仏を信ずるのだ、一言の
聴聞と雖も必ず仏は縁とせられるのだ。
しかし重に病人には時間が必要だ!!
親鸞聖人が二河白道の行者の一分二分を行くと言うことを一年二年行くと釈せられたのは、
重い業病のたすかるには時間がかかると叫んでおられるのだ。
今日一回なまけて聞かないために一大事を失うことになるのだ。