良寛さまの歌に
「弥陀の誓願の不思議がなかりせば何を此の世の思い出にせん」
というのがあります。
一日に何度となく思い出し南無阿彌陀仏に救われ
南無阿弥陀仏に生かされた
不思議、
この世へ出させられた元をとらせて頂いたことに
ただただ有難く頭の下るばかりです。
この喜びを頂きましためも
親鸞会の先生の
ご教導あったなればこそと、
喜こばずにはおれません。
先生の
浄土真宗の法話を聞くにつけ、
私もあの道を通らせて頂いたのだと
一つ一つ胸にしみてうなずけます。
聞いても聞いても判らなかったあの苦しかった時の事、
夜も心配で寝られなかったあの時、
どこかにどこかにと探し求めていたあの時の事、
どこからか聞えて来ぬかと耳そばだてたあの時、
何度捨てては拾いを操りかえしたことか。
こう思うことが自力だろうか他力だろうか。
あ!つらい、一層のこと捨ててしまおうかと思うもののまた気にかかる。
精も根もつき果てたその時、法の鏡のお照らしで
極悪のおそろしい自性が見せつけられました。
「
あらそうだった」、
私は今まで自分という奴がどんな奴か忘れていた。
よいことの一つもしてこなかったこの奴が
自分の
悪業に気をつかず
阿弥陀如来に救われた
い助かりたいと思って来たのが大間違いだった。
私のような罪深い奴は
地獄一定、
堕ちるより外になかったのだ。
……と知らされました。その時でした。
あ、明らかに明らかに弥陀の本願に救われました。
ただ不思議不思議こんなことは知らなんだ。
知らなんだ無始より以来この一人を救わんが為に
どんなに
阿弥陀仏に御苦労をかけたやろうと思うと、
何の間違いで救われたのかとただ泣けて泣けて
家中響き亘る声で踊り上りました。
あふれ出る歓喜の涙は自分でどうすることもできませんでした。
この身に救われてより一年半、
日がたつにつれて嬉しくこのせまい胸の中に
こんな広大な明るい世界が開けるとは
不思議の中の
不思議です。
逆境の苦しい悲しいその中で
初めて如来さまの大悲が知らされるのです。
ただ今とも知れぬ命です。
皆さん!早く早く一人でも真実の御法を聞いて
不安のない大安心の身になって下さいと祈りつづけるばかりです。