如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし
ひしひしと胸に迫るものがございます。
私は一昨年十一月に
信心獲得し信心を慶ぶ身となりました。
親鸞会の講師のご教導によって
ついに如来の独り子にさせて頂いたことは
何ものにもかえることのできない喜びです。
もともと無知無学な私は何が善やら悪やらさえ判らない奴でありながら
我ばかり強い私でございました。
その上とんでもない異安心を持っておりました。
その私に先に獲信なされた方が真実の
信心はそんなものではない、
もっともっと広大な世界があるとご自身の体験を聞かせて下さいましたが、
私は半信半疑で夢をみているような心できいていました。
ところが、たまたま城端の野口ヘ行商にゆき、ある方に会わせて頂き、
またまた真実
信心の体験を聞かせて頂き、
ああ何と私は馬鹿なものを信じていたのか、
真実を知らせて頂いた上は何が何でも
信心獲信するまで進ませて頂こう、
何が何んでも聞きぬくぞ、明日よりは先生の御教を真直に求めてゆくぞ!!
と心に強く決心致しました。
唯どうしたらどうしたら一心一向になれるのか、
一心になろうと思えば思う程、
煩悩が出て一心になれません。
朝に夕にやるせない思いで私の心は一ぱいでした。
夜のねざめにも、道ゆく時も半病人のように、
ただ一心でございました。
今夜も、
死んだらどうなる
死んだらどうなる一体どこへゆくのだろうか、
泣くより仕方がございませんでした。
時々あの方を訪ねて
「あなただから救われたのです、私なんか、とても助かる奴じゃありません」
と泣きだす仕末でございました。
その方にはげまされ、
親鸞会の講師に導かれ、
迷い迷って来た私は遂に如来の大悲に
明らかに明らかにに救いあげられました。
その朝はシトシトとキリのような小雨が降っていました。
親鸞会の信条の中の
真実を獲得する者最も幸福なりと仰せになった。
この獲得の二字まで来た時、
とうてい助かる見こみのない
地獄一定の私、
真暗な底なし
地獄に堕ちました。
その時でした。
久遠の御親に救われました。
明らかに明らかにああ尊とや、
不思議の中の
摩詞不思議、
私一人の親じゃったとおどり上って喜びました。
おのれ忘れて踊りました。
先生の獲得の二字の御催促がなかったら私は永遠に迷っていたでしょう、
私の親鸞さま、私の
親鸞会の先生、心は感謝で一杯でございます。
弥陀の御心私に伝え早く獲よの御催促、
親鸞会の講師の御前に両手をついて泣いてもみたり笑っても見たり。
これは無学な私の喜びでございます。
今もつらい病気の中から、
三千世界一の果報だったと魂は叫んでいます、
みなさん早く真実に目ざめて下さいと念じて止みません。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏