自己流の信心
勝興寺の三国一の同行に
観経にある三福(世福、戒福、行福)という言葉の説明を求めると、
「そりゃあんたらには判らんだろう」
といい自分のその場の判断で
「一に親孝行、二に兄弟仲よく、三に君に忠なれ」
と全然関係のない事を言う。
親鸞会の先生が
「それは違う、ブッダの説かれたお経をねじまげるのか」
と正されると、それが自分の胸に全然応えないらしく、
知らない事、解らないところを平気で自己流に解釈し、
誤りにも気付かぬ高慢さにはただいらだちを憶えるばかりであった。
やがては
お経さえ間違っているといわんばかりの言動に及ぶ。
私達凡夫が救われるにはお経と善知識の教がなけねば
絶対に真実信を体験することができないのに、
ブッダもお経も善知識も
信心の為には必要ないという。
お経をタノンで助かるのではないが真実を知るには
お経、聖教、善知識の力に依らねばならない。
言葉につまったあげく、そんなものの存在を認めないという。
この辺にくるとまるで目茶苦茶である。
それならあなたは今まで何によって仏教を知らされたのだ
と何度聞いても答えようとしない。
自分は特別な人間で生れながらに備わっているのだ
といわんばかりの態度である。
まさしく十劫安心そのものずばりを自らは知らず知らずの内に暴露している。
これが三国一の同行といわれる程、真宗は廃ったのか。
教えはあくまで素晴らしいのに、これを教える人がいないばかりに……と思うと
情なくもあり、一刻も早くこれらの人に本当の教を伝えなければならないと
親鸞会の使命の重さを感じさせられる。
同席した大衆の大半はというと一文不知と認めているのだから
私達のやっている破邪顕正を判断する力もなく、
唯三国一の同行といわれる宮本さんの仰言ることなら間違いないという妄信だ。
訳のわからない難かしいのが仏教で有難いのだと信じこんでいる。
仏教はハッキリ納得させたり、ハッキリすることはないと思っているのである。
自分の体験、それも破闇満願、日本晴の心に生きかえさせて頂いた体験が
ハッキリしない訳があろうか。