『よく
親鸞会の先生が
『
信心ほどの宝は三千世界の宝物まる貰いしたよりもありがたい』
と言われるがあれは少し言い過ぎではありませんか?』
『
親鸞会の先生がどんなに大きく叫ばれたからとて
とても及ぶ世界では無いのです。
三世の砂の数ほどの仏方が逆立ちして説かれたからとて
この
信心の
不思議は説きつくせるものではないのです。
あなたもこの世界をたのめたら解ります。
三千世界の楽しみを、
片手に握ってこそばやい』
と言うて見てもなお見当がはづれます。なんとも
不思議の法海です』
『今、たのめたらと申されましたが、たのむということはお願いすることですか?』
『違います、
御文章によくたのむ一念とありますあのたのむは信を言われたものです。
ですから疑い晴れることであり、まかせきったことであります。
御文章を少し注意して読みますとたのむ一念は必ず
信心であり、
疑い晴れたことであり、
計らいがすたったときを指して書れてあります。
ですから決して
神に子供をさずけて呉くれ病を治してくれと言う祈りや願ではないのです。
母親が赤ん坊を他人にたのむのでさい信じる心があるからです。
まして後生の大事、
たのむ一念は信ずる一念であります。
信ずる一念はまかす一念であります。
ですからたのむ一念の心に、
疑いや計いが雑らないのです。
ここを以ってたのむ一念と言うは信心決定のすがたを指して
おっしゃってあることなのです』
合掌