小さい頃から裕福でなかった私の家は、
ちょうど私が6年生の時に6番目の弟が生れたのをきっかけにますます生活が苦しくなり、
最低の生活をしなければなりませんでした。
父は長浜へ勤めておりましたが、その年大阪へ回されるようになり
会社を退めてしまえば私達一家は生活してゆけなくなるので
6人の子を育てる為に重い足を大阪へ向けるのでした。
母は心臓が悪く寝たり起きたりの毎日、重い仕事なんか決して出来ません。
心配をしただけで心臓は高なり死ぬ位の苦しみなのです。
ですから6番目の弟には母乳が与えられずミルクを買わねばなりません>
ミルク代を作る為には食べる物を節約するよりほかになく、
おかずといったらいつも野菜でした。
その上、その頃の私は口が悪く苦労して育ててくれる親の恩も知らず、口ごたえをしたり、
気にいらない事をいわれたら母に物を投げつけても平気、
その為母は私の前で何度泣いた事か知れません。
親を親と思わなかった私、
そんな私を父は知っておりましたが姉の私に頼むより他はなく
「お母さんとみんなをたのむぞ」
と言うと大阪へ行ってしまいました。
学校の教科書も買えず、私が妹弟の本を借りに友達の家へ行かねばならなかったのです。
中学へ入る妹には自転車が買えず泣きながら子供用の自転車に乗ってゆけと言わねばなりません。そんな生活の為、私の願いは一日も早く楽になりたいと思うことばかりだったのです。
辛く長かった中学時代が過ぎ、就職をした私、さあ楽が出来るぞと甘く見ていた実社会は冷たく、又つらい毎日と逆もどり。
私の生活はだんだん乱れ、日曜に家へ帰ったのは始めのうちで、家に帰るのさえもイヤになり、遊びにゆく始末、仕事もなまけるようになりました。
こうなるともうアリ
地獄に堕ちたようなもので、誰の注意も聞けず、
ますます堕落するようになったのです。
華やかな生活にあこがれ不良仲間とつき合うようになり、
姉という事も忘れ、実社会に出て間もない妹まで連れ出して同じように遊ばせ、
こうなったのも全部親の責任だと自分をかばうのでした。
そんなある日、同じ村の方から、米原の
親鸞会館へ来るようにと電話がかかってきたのです。
フラフラと米原に来た私の連れてゆかれた所は、今までの私と全く違った世界だったのです。
そして初めて
浄土真宗の法話を聞かせて頂いたのですが、
驚いた事は、若い人が一生懸命に仏法を聞いている事でした。
そして二度三度と聞かせて頂いているうちに一度も親に悪いなどと思わなかった私が、
ああ何という親をおろそかにしてきたのだろう。
私を大きくするまでにどれだけの親の命を奪って来たことか。
私は
後悔せずにはおれなかったのです。
今まで、さんざん親不孝してきたから今度は二倍にも三倍にも
親孝行するのです。
それには仏法を求めなければなりません。
もし私がこの仏法に遇えなかったら二度と私の人生に取りかえしのつかない道に入ったに違いありません。
若い皆さん、私のような極悪人でさえも仏法を求めるようになったのです。
悪の道から助けて下さったのです。
これも
親鸞聖人のおかげなのです。
さあ!
親鸞学徒の皆さん!!
今こそ親に反抗し、堕落してゆく人、迷っている人、一人のこらずに真実の
仏教のあることを教えてあげようではありませんか。
若い力を燃し、
悪を悪とも知らずにいる人を一人でも多く破邪顕正しようではありませんか。
私達姉弟はどんな苦しみにも負けません。
早く妹や弟が大きくなり、共に仏法を聞かせて貰い喜こびあえるその日まで私は一生懸命
努力して、めざす
信心決定にと前進致します。