“なすことを残して春のわかれかな”これはさる年、
ある校長が異動するに当って生徒に示したことばである。
われわれはどんなに一生懸命ことをなしていても
いよいよ最後になってみるとあれもこれもとできなかった仕事が
思い出されるものである。
今度青年部の人事異動が行われ異動になった諸氏の心のどこかに
この句に似た何かがあるだろうと察せられる。
しかし
親鸞会においては別れということばは、
よくよく考えてみると50年70年の寿命の終るときであろう。
否
親鸞会には娑婆の別れはあっても、
永遠の光に輝らされておればそれはないはずであろう。
けれども任務の一くぎり一くぎりには
誰でも一沫の
後悔が生ずるものである。
常に全力主義を唱えられ、心のすみずみまで照らされている善知識は、
日頃“生きてよし、死んでよしといっておられるが何と対照的の言葉であろう。
たとい
信心獲得のご縁にまだ恵まれておらなくても、
真実の御法を聞かされ知らされたものはそれだけでも
素晴しい絶対の幸福への首途であると聞かされている。
されば、凡夫の悲しい
業、
愚痴はもっていても
いつどの様になっても驚かないように
平生からわが身の全身全力を尽して喜んで
事に処せられるよう努めたいものである。
“なすことを仕遂げて春の別れかな”となるまで……。