親鸞会で行われた演劇「板敷山の
弁円」の参詣者を感泣のるつぼと化した場面です。
弁円 貴様が堕落坊主の親鸞か!!俺は山伏弁円だ!!
貴様坊主のくせに女房なぞ持ち、あまつさえ、弥陀は悪人が正機なぞと申して、
何も知らない百姓共をたぶらかし、己の腹をこやさんとするヤツ!!
この弁円が仏に変って成敗してくれるわ!!(刀を振り上げる)
親鸞 弁円殿、そなたの仰せ、仏弟子としてまことに道理にございますが、
しかし人間この世に生きるに一体誰が罪悪ならずして生き申せましょう。
親鸞もかつて叡山に20年の苦行を歩ました。しかしだめでござった。
弁円 だまれだまれ!!俺は貴様の説教を聞きに来たのではないわ!!勝負せい!!
親鸞 されば弁円殿、そなた、そなたのその
怒り、その憎悪、その
嫉妬をいかがなされる、
仏の如く大
慈悲の心に転じられまするか、それ自体が罪悪にござります。
弁円殿いわゆる凡夫の身は弱き者にござります。
仏の正覚に至ろうとすればする程、正覚に縁のない無知妄念の我身を知らされ、
また
慈悲深く清浄の心にならんと
精進すればする程、
無慈悲とけがれにしみついた我身に気付かされ、どうにもなりませなんだ。
まことに親鸞いづれの
善も及び難き身でござれば、
地獄は一定住み家でござりました。
しかるに弁円殿、かかるあさましき親鸞が、一度び
浄土念仏の化導に接し、
たちごころに弥陀如来摂取の光明に値い申したのでござります。
貪瞋、邪偽の悪性は少しも変りませぬが、心は
不思議と
光明の広海に遊ぶようにござります。
凡夫の目にこそ見えませぬが、弥陀の願力は真実にござります。
これは弁円殿、説教がましきことを申し気を悪うせんで下され
弁円 親鸞様、お許し下され、弁円が間違うておりました。
あまりにみにくうござりました、どうぞご存分に御処罰下され!!
親鸞 お互いに過ちの身、この親鸞とて、
因縁が来れば何をしでかすかわかりませぬ、
さればこそ
他力本願に帰依申すのみでござる。
弁円 親鸞様!!さればこの弁円にも如来の救いがありましょうか。
親鸞 何を申さる、弁円殿、この愚にきわまりたる親鸞が救われたのです。
そなた程の真正直な人の救われぬ道理がござりましょうか。
我れらが如き唯念仏にきわまるのです。
時至らば必ず如来の大命に帰する時がござります。