つめかけた聞法者は、大きな場内にあふれるという盛況ぶりでした。
力強く自信に満ちた先生の説法は聞いたことのある人々にはもちろんのこと、
今、始めて聞く人々にも深い感動を呼び起したのであります。
「こんなよい法話は、今までに聞いたことが無い……
なぜもっと早くお
寺に招待しなかったのか?」
みんなのこう言った声を、私は幾人もの口から聞きました。
ところが驚いたことには、この日説法が終って間もなく私は、
お世話になった
僧侶から驚くべきことを聞かされたのです。
それは「今、教務所から電話があって、
浄土真宗の法話を中止するよう申して来たのですが、
どういたしましょうか」と言う言葉を聞き、私は泣きました。
なんと言うことでしょうか、
今や、真宗興亡の機に際し、しかも
浄土真宗の
僧侶である人々から
こんなことを聞こうとは、胸のつまる思いがしました。
日に日に薄れてゆく真宗の危機を救わんと、寝食を忘れ、
時には、身の危険をも返り見ず、
日夜涙の精進を続けられるのを、
一体なぜ妨げようとするのでしょうか。
もし教えが間違っているなら、どこが、どう間違っているのか、
正々堂々法論すればいいでしょう。
仏法ほどの一大事、人々のまた聞きのみで、
どうしてこんな非難ができるのでしょうか。
どうしてこんな無責任なことをいえるのでしょうか。
異論があれば、いつでも応じられるでしょう。
法話をただの一度も聞かず、聞こうともせず、
こんな非難をすることは、仏法にあだをなすことです。
私たちは今こそ手をとりあって
立ち上がるべき時なのです。
願わくは、人の世に、まことの信仰あれかしと念ずべし。
願わくは、人の世に、まことの幸福あれかしと念ずべし。
親鸞学徒の使命は重いのです。