親鸞会の青年部が発展していることは、
親鸞学徒にとっては大きな慶事です。
古今東西を問わず時代を創造しリードするものは
青年であることは
歴史の証明するところです。
そうであれば
親鸞会の将来もひとえに
青年部の双肩にかかっているといって過言ではありません。
今や外には
外道邪教がバッコして大衆を迷わせ、
内は腐敗堕落して
葬式仏教と化し
親鸞聖人の開顕された真実の教法はまさに危機に瀕しています。
この現状を慨歎し、かん然として破邪顕正の法戦に立ち上がった
親鸞会青年部の使命はまさに三千大千世界よりも重いと
いわばなりません。
考えるに青年の特質は強い正義感と速かな決断力、
旺盛な行動力を持つところにありましょう。
正邪を峻別し邪を憎むこと蛇蝎の如く
正を愛しては水火も辞さず猛進するところが
青年の青年たるところです。
「駿馬も老いれば駑馬に劣る」の諺の如く
人間も老いると正義感がにぶり決断が妥協となり、
日和見主義になってしまうのです。
自己の利害損得ばかりを考え
欲望に目がくらんで正邪の区別を失います。
合点しながらでも平気で邪悪と妥協する我利々々亡者の
餓鬼にひょう変します。
戦争中あれだけ
「天皇の御為にいさぎよく一命をすてよ」
といって青年達を死地に追いやった大人達は、
その青年達が身も心もヘトヘトになって帰ってみると、
いつ変ったのか判らない間に
意外にもいわゆる民主主義者に早変りしただけでなく
恥知らず共は罪もない青年達に
「総
懺悔しろ」
と強要したことを覚えているでしょう。
こんなことは正義感の強い青年には夢にも考えられぬことだが
大人は平気でやってのけるのです。
しかしこれは全く恥ずべき反真実の言動であることに間違いはありません。
このような常識化した邪悪と戦いこれらを一掃して
真実を開顕せずにおれないのが青年の意気なのです。
故に青年は最も真実に近い時代であり、獲信の適齢期なのです。
邪に向っては何者にも怖れず戦い、真実に向っては水火も辞せず突き進む、
これが真の青年の姿であり、また親鸞聖人の御一生でもありました。
無実で流刑に処した天皇に対しては
「主上臣下法に背き義に違す」
天皇も何もあるものか、とその邪道と戦い、
真実を顕わす為には肉食妻帯も断行なされました。
まさに聖人は永遠の青年であったというべきでしょう。
されば聖人の進まれた道はそのまま青年部の道なのです。
そしてそれはただひたすらに真実へと通じている道なのです。