浄土真宗は自利利他の教えと聞かされている。
これは自分の利した事を他人にも利せという事で
信心獲得した人は未信の人に自分の体験を通して
真実を伝えまた未信の人は無地の人に対して善知識のもとへ縁を結ぶと共に
聴聞に励む事であると思っている。
さてここで少し考させられる事がある。
信心決定した人が未信の人に体験を通して真実に導くのは有難い事だと思っているが、
問題は未だ信心決定していない私が
時として善知識に代わり説法を始めるという事がある。
蓮如上人が“御一代聞書”の中に
「ものを申せものを申さぬが悪き」
といわれているが、私はこの御言葉は
「信心をとりたるかとらざるかの沙汰を幾度もせよ」
といわれたことによって説明がつくと思う。
そもそも説法とは相手を叱る事で、釈迦が十大弟子を始めとして
衆生に説かれたのが説法であり、
讃岐の庄松同行が脇谷覚行に説かれたのも説法であり
また
親鸞会の講師が私達にお話下さるのが説法である事はあまりにも明らかな事であるが、
この
浄土真宗の法話を聴聞せねばならぬ私、
即ち迷っている私が人に仏法を説いて心のどこかに、
うぬぼれ心が働くことの虚しさ悲しさを感ずるのをどうしようか。
これを
「一盲衆盲をひきいて火穴に入る」と言えば言い過ぎになるであろうか。
私は“曾無一善”という言葉を説教で聞いてからつくづく思う事がある。
絶対の
善ができないという事は絶対の
悪が分らないからであると思う。
さすればもしあるとすれば私が
阿弥陀如来にすくわれていないという事であって、
それ以上の罪があるであろうか?
もしそうならば、たとえ善知識の言葉を一言半句間違えずに記憶し
それを再現する事ができたとしても、この私は大罪を犯していないだろうか。
だと
すれば親鸞学徒として私は今まで
あまりにもなさけない行動をとってきた事になりはしないか、
この罪を罪とも知らずにいるというのであるから何ともかんとも仕方がない。
その仕方のない奴に
無常がかかっている。
実にあわれなものである。
このように私の心に鞭うって下さるのも
親鸞会で説かれる真実の教えからであろうか。
もともと
親鸞会は一人一人の
往生を決する闘争の場である。
全く他人の事ではない。
或る人が自分の家が燃えているのに気が付いたその時に隣の家にも燃え移っているのに気付き
一緒に、手伝っている内に自分の家が焼げてしまった。
そんな事になったらどうしようか、廃悪修善結構
仏教学尚結構、破邪顕正賛成だが
そんな事を叫んでいるこの私の足もとに火がついているのを知って
阿弥陀如来はどんな心で見て居られる事であろうか。