親鸞聖人は平素は柔和であるがこと
信心の問題になると極めてきびしくハッキリされている。
弟子達がびっくりしてしまうこともしばしばあった。
そのはげしさは時には度をすぎて
後悔される程のこともあった。
しかも、ややもすれば情に押し流されようとする自己にはげしい
反省をなされている。
この聖人のきびしさと、はげしさを有難く頂けないものは
真実がどうの、こうのと言う資格は絶対にないのだ。
蓮如上人も毎晩風呂の下で弥陀以外の
神や
仏像を焼かれてまで、
「さらに他のかたへ心をふらず、一心一向に弥陀一仏に帰命せよ」
ときびしい。
文句なしに頭が下るではないか。
親鸞会は一人でも多くの人々に真実を知って貰う為に
浄土真宗の法話を行い、全力活動をしているものではあるが、
真実をねじ曲げてまで、迷える者と妥協は絶対にしない。
これがいずれの世においても真実を求め、真実に救われ、
真実を開顕する者の変らないきびしさなのである。
たった一人、先頭に立って真実を切り開く者のはげしさでもあるのだ。
最後に親鸞学徒一同に、この不幸を縁として生れた尊いエピソードを招介しておこう。
それは大島清の実妹で礼子さんが
「いくら私がいさめても兄は聞いてはくれないのです。
ことここに至っては致し方ありません。
兄は兄、私は私です。後生の一大事は兄に従うことは出来ません」
とキッパリ兄妹離縁してでも最後まで真実と共に進むことを誓っている、
ということをお伝えしておこう。