名利で説けぬ真実の教え
一点の妥協も許されない真実
自ら
親鸞会に寄生しながら大島清は
「自分は親鸞会の顧問だ」
ともうそぶいていた。
いまだ親鸞会に顧問の設置せられたことを知らない。
これ程、虚言を弄してまで彼は自己の名声と利益の為に
親鸞会を利用し真実をねじ曲げていたのだ。
「
神を安置して礼拝していても悪くはない、
親鸞聖人も
蓮如上人も排斥されたことはない」
とも言って迷える大衆の歓心を集めている。
なぜにこれ程、反真実の言動をしてまで大衆に
媚びを売らねばならぬのか。
我々は理解に苦しむ。
勿論、彼の家庭生活も苦しいのだから人々の歓心を呼ぼうとする気持は判らぬでもないが、
それでは大道芸人が一夜漬に習った素人芸をもって
翌日は風の吹く寒い街頭へ破れ三味線をかかえて親不孝の声を絞るのと変らないではないか。
生活するなら広い世の中にいくらでも仕事があるのに、
なぜ不浄説法をしてまで人を迷わすのか。
その心情を察すると浅ましくも泣きたくなる。
ブッダ出世の本懐は
「一向に専ら阿弥陀如来を念ずべし」
であったことを信知された親鸞聖人が、
この仏意を開顕せられたが為に35才の時に流刑にまで遇われたのではないか。
それだけではない。
84才という御老令にもかかわらず、長男
善鸞を、
これが為に義絶せられている。
「今は親というべからず、子ということ思い切りたり」
ときびしい勘当をしておいて
「かなしきことなり」と最後につけ加えていられる。
はげしい裏側に、やさしさもあるが、臨終に父上に一目あわせて貰いたいと
面会を求めた善鸞を聖人は断乎拒絶なされている。
これは善鸞が自己の名誉と利益の為に迷える者と妥協し
神を祀って一向専念に反したからであった。されば我子を断り、
一身の生命を賭してまで、神を排斥せられた御心は末法の我々に
真実を教え真実の救いにあわせんが為ではなかったのか。