親鸞会の講師はほとんど昼夜休み無き御説法、
親鸞会の講師とて生身のお体少し御無理に過ぎられるのではなかろうか?
お風邪をひかれてもお休みの時間がない。
このごろことにおつかれの様子である、
また午後になると熱が出るとか、
そのためかお食事もすすまれず、
時折りふらっとすることさえあるとおっしゃられる。
きっと金沢の
浄土真宗の法話だったと思うが、どうにも見るにしのびず、
私はとうとうお願い申し上げた。
『先生、少しお体を休めて下さい。とても今のままでは御無理です、
皆さんには私からよろしくお伝え致しますから』
『いやありがとう、気持ちはうれしいけどそんなわけにはゆかない』
『それじゃ先生、せめて一日おきになされるか、
さもなければお説教の時間を今の半分ぐらいにして下さい、
そしてお声をもっと小さく加げんなされた方がよいと思います、
でないととてもこのままではお体が持ちません、
皆も同じ気持でございます』と熱心にお願い申し上げた。
しかしお言葉は意外であった。
『人間に生を受けることは難く、
ましてや
仏教を聞くことは更に難いことである。
今日縁あって私のそばに求めて来られた人々を前にして、
どうして時間や声の加げんができようか。
みんな手をついて聞いているが
無常の前に座っている蛙である
とても危くて見ておれない。
私にとって説教壇は命がけの場である。
親鸞会の講師の死に場所はふとんの上ではなく教壇上である、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』
静かにお念仏なされるお顔から熱っぽいあぶら汗が流れていた。
ああ如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし
とても私ごとき者のうかがえ知る世界ではない。
当に
親鸞会の講師こそ大信海化現の
菩薩だと、
私は今でもそう信じている。