私は富山県の医者の家に生まれました。
生来は無口で理屈ぽい性質で浄土真宗の家に生まれながら仏様に参るのは形式だけで、仏教など古くさい教えだ位に思って居りました。
自分の堕獄の姿などさらさら知らず、人様によい娘だと言われれば、いい気になってのんびり成長致しました。
それが結婚して現実社会へ出て見てから今までの理想空想があちらこちらではずれて来て、だんだん社会苦を知るようになりました。
望みをかけていた長男を一年半の可愛盛りで亡くし、その後生まれた次男も又思わぬ病気で人道になれない子になりました。
その間の苦しみで色々な邪教へ行ったり、迷信と知りながらずいぶん迷い歩きました。
生家や兄弟達の豊かな生活と比べて自分程不幸なものはない、何事も誠心誠意にやってるのにと、わが身知らずという事も知らず、わびしい人生を悩み続けました。
それからしっかりとした信仰心を得て幸福になりたいと強く思うようになりました。
キリスト教会へも行って見たり生長の家の話も聞きに行ったり、
ある時は天理教まで行って見ましたが、
理屈ぽい私はどうにも満足できず心は幸せになれません。
そのうち良人の勤務上、満洲まで行き、終戦になり、
突然、良人に死なれて四人の子供をかかえて家財全部失い引揚げて来ました。
幸い富山県に家と地所がいくらか残してありましたが、
終戦後の激変に地所は小作にとられるし、
何のとり柄もない私が子供をかかえての苦労がまた始まりました。
いよいよ信仰を求める心が強くなって来ましたが、
また生長の家へ行っても心は晴れず、
お寺へ行っても満足できず、本当に真実を救える人はないものかと探し求めて居りました。
そんな時、生活の為に始めた貸本店の為に不思議な御縁で、ふらりと深松先生にお会いできました。
深松先生は高森先生の御教導で獲信されたまもなくの事だったそうで、私は若い先生が仏法に徹しておられる御姿に不思議を抱いて御言葉をかけましたのが、不思議な如来様のお導きでございました。
仏とも法とも知らぬ私に先生は淳々と仏教の始めからくわしく説いて下さいました。
これこそ長い間私が迷って求めていた行くべき道だと思われて、一直線に聞いて行きました。
先生がしげしげと来て下されて私にも尊い教えがわかって来て、ぜひ私も救われたいと一生懸命に聞きました。
初めは仏教がよくわかって来て嬉しかったのですが、だんだん聞けば聞く程、頭だけで合点しながら心の奥底にでんとすわって、何も受けつけない我身の業魂に気がついて来ました。
泣いているのも表面のうそ、永劫迷うて来た本当の私の魂はびくともしていないのをつくづく味わわされます。
はじめは喜んで先生を迎えたのに終には我心のしまつに困って、先生の御顔を見るのがつらく勿体ないのに泣けて来て何とむずかしい御法だろうと悶えました。
その間、私のことを深松先生は、高森先生に御話してあったのだそうです。
先生に聞きはじめて半年余りすぎました。
そんな時、高森先生と喜んだ人達の集まりが高岡市であるからと深松先生に誘われ、私だけはとても救われそうにない悲しい思いをしながら先生に引張られて参りました。
念仏につつまれた楽しげな方たちの中に私一人信前の悲しい身を最後と思って高森先生の御話を聞く事にしました。
高森先生は私一人を相手に正座せられて一眠りもせられず、一生懸命に説いて下さいました。
あーあの時の先生の御姿を今思えば如来様でございました。
私は正座したきり何も申上げられず、ただただしびれ切った私の業魂と闘っていたのでございます。
はげしい苦しみでした。
夜がしらじらと明けて来たのに私の魂はちっとも答えてくれなかったのです。
私は絶望に落入りました。
家には子供達が待っております。
私は泣く泣く冷たい小川に沿った小道を帰りました。
あの朝の事は終生忘れられません。
子供達は黙って待っていてくれましたがその日は、何も手につきません。
夜も眠れず、明けて24日亡き父の日、私は仏壇の前に伏して泣きました。
阿弥陀様の色々な御手廻しも受け付けない自分の機ざまのしぶとさ、おそろしさに泣きました。
どなた様が助かっても私だけは助からないと……。
が何と言う広大な阿弥陀仏の本願であったことでしょう。
まもなく十劫の昔から私一人の為に御立ちづめの阿弥陀様が、手をかえ、品をかえて私を救おうとしていて下さるのにお前が助からないで誰が救われるのだーと声なき大音が私のしびれ切った業魂にひびき渡ったのです。
私はひっくりかえったのです。
そんな広大な弥陀とは知らなんだー有難うございます。
南無阿弥陀仏、私は暫らく馬鹿みたいに笑って居りました。
それから仏壇にとんで行って長い長い間、迷いに迷って来たお詫びをして泣きました。
子供達は私が気が違ったとびっくりしたそうです。
四の五のいうたは昔の事で、何と言われても疑うて見よて言われてもとられてしまって心明るくさせられてしまいました。
幸せ者でございます。
この尊い仏法を一人でも多くの人々に聞いてもらいたいものと学問もない私は高森先生の御法座に一人でもよけい集まって頂きたいとそれのみに甲斐性もない身ながらお手伝いさせて頂いております。
高森先生の御恩はもとより深松先生が私に最初の御手引きをして下さった御恩も終生忘れられません。
その御恩返しの少しも出来ぬ身を悲しむばかりです。